こんにちは。徳島県、ラストは徳島:四国のみならず、日本全国、また日本にとどまらず世界のアートファンにとってもその名を聞いたことがあるであろう美術館です。既に観光雑誌、旅行雑誌その他諸々メディアで露出度高いところですので、「そちらをご覧ください!♩」で済ませても良いくらいですが、一応真面目にご紹介しておきたいと思います。名前を聞いたことがあっても、案外場所はご存じない方もいらっしゃるかもしれません。鳴門のうずしお観光のすぐ隣、あわじ島と徳島を結ぶ大鳴門橋の先端に位置しています。それでは早速。
このブログで紹介する美術館
大塚国際美術館
・開館:1998年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)
・場所
大塚国際美術館 – Google マップ
→どうでもいいですが、台風の時、ここは風も渦潮も大迫力…というか怖そうです。
世界26ヶ国190余の美術館の名作絵画。日本を代表する医薬品メーカーが創立75周年で打ち立てた陶板名画美術館
・大塚国際美術館は、「オロナミンC」やスポーツドリンク「ポカリスエット」、栄養食品「カロリーメイト」「SOYJOY」などでお馴染みの大塚製薬グループが創立75周年記念事業として徳島県鳴門市に設立した日本最大級の常設展示スペース(延床面積29,412㎡)を有する陶板名画美術館です。
館内には、6名の選定委員によって厳選された古代壁画から、世界26ヶ国、190余の美術館が所蔵する現代絵画まで至宝の西洋名画1,000余点を大塚オーミ陶業株式会社の特殊技術によってオリジナル作品と同じ大きさに複製。原画が持つ本来の美術的価値を真に味わうことができ、日本に居ながらにして世界の美術館が体験可能です。陶板名画は約2,000年以上にわたってそのままの色と姿で残るそうで、文化財の記録保存にも大いに貢献しています。
←私も足を運んだことがありますが、大塚オーミ陶業㈱の絵画画面の凹凸や筆跡まで再現する複製技術の高さもさることながら、このような記録保存の目的もあり各国の美術館が大塚の陶板に焼きうつすことを認めているのですね。
(参考)絵画学術委員会(2017年~)
青柳 正規 東京大学 名誉教授 古代担当(委員長)
小池 寿子 國學院大學 教授 中世担当
小佐野 重利 東京大学 名誉教授 ルネサンス担当
大髙 保二郎 早稲田大学 名誉教授 バロック担当
千足 伸行 成城大学 名誉教授 近代担当
木島 俊介 共立女子大学 名誉教授 現代担当
陶板名画の工程
・陶板名画は以下のような工程を経て作られるそうです。
米滋賀県甲賀市信楽町の工場で色の分解から焼成まで全てを行っているそうで、1000〜1350度の高温で約8時間もかけてゆっくりゆっくり焼成します。専用の釉薬の種類は約2万色にも及びそうでそれだけで気の遠くなる作業です。そして私も現地に足を運びもっとも驚いたのですが、アーティスト自身の筆跡や油絵の具の盛り上がりなどは全て職人さんたちのレタッチと呼ばれる手作業…原画の資料や現地での記憶を頼りに、色や仕上がりの立体感を加えていっているそうです。このような作業を経て、もはやオリジナルと寸分たがわぬ、現地に行った人ならその再現性の高さにニセモノと揶揄することすらはばかられるようなレベルの陶板名画が完成するのです。
<色の分解>
<転写機に印刷>
<陶板に転写>
<焼成>
<レタッチ>
大塚国際美術館:初代館長の遺した言葉
・私も現地パンフレットに記載されていた大塚製薬初代社長で本美術館を創設した大塚正士初代館長の言葉を通してこの美術館の歴史を知ったのですが、ホームページにも同様の内容が記載されていましたので、文言そのまま転載しておきます。(故郷:徳島を想う非常に心温まる言葉の数々です)
一握りの砂
・大塚製薬創立75周年事業として「大塚国際美術館」を設立いたしました。昔を思い出しますと、私が5歳のときです。父・武三郎が大塚製薬を創業しまして、私を肩車で工場設立の現地に連れていってくれました。親方の工場に比べてあまりにも建物が小さいので「お父さん、うちの工場ってこんなに小さいのかい」と言いますと「おお、今は小さいけれどそのうちに親方の工場より大きくするぞ」と、その言葉がまだ耳に残っております。ついこの間のことのように思われますけれども、それから75年経ったわけです。
徳島県に貢献する一握りの「白砂」
・我々が今回のような美術陶板の開発に着手したのは、今から27年前のこと、私が大塚グループ各社の社長をしておりました時に、グループ会社の一つの、大塚化学の技術部長であった私の末弟・大塚正富(現アース製薬株式会社社長)と、技術課長の板垣浩正(現大塚オーミ陶業株式会社取締役)の2名が私のところにやって来て、一握りの砂を机の上に盛り上げたことからはじまります。
「社長、実はお願いがあるのです。」
「その砂はどうしたのだ?」と尋ねますと、「これは鳴門海峡の砂です。」と言います。
うちの工場は紀伊水道に面していて白砂海岸がずっと海峡まで続いており、その白砂です。「実はこの砂でこれからタイルを作ろうと思っております。この砂はコンクリートの原料として採取し、機帆船で大阪や神戸へ陸揚げして、建築用としてトン幾らで販売しているのです。しかし、これをタイルにして1枚幾らで販売すると非常に価値のある商品になり、徳島県のためにも、また大塚のためにもなりますので、是非とも県知事に話してこの白砂を採取し、タイルを作る許可を貰ってほしいのです。」とのことでした。
直ちに当時の知事、武市恭信氏に話をして許可を得たのですが、彼ら2人は大塚が着手しないのなら会社を辞めるとまでの大変な意気込みでして、私も感心したのです。
技術に優れた「大塚オーミ陶業」の設立
・そういう経緯の後、鳴門の工場内に炉を作りタイルの製造を始めたのですが、小さなタイルからはじめ、次第に大きなタイルが出来るようになり、ついには1メートル角のタイルを作っても歪みや割れが一つもなく、20枚作れば20枚とも100%合格の商品に出来上がるようになりました。
そもそも陶磁器で大型製品を制作することさえ難しいのに、まして1メートル角の陶板を歪みなしに作るということは非常に困難なのです。その頃はアメリカでも20枚中19枚が不良品になって、1枚だけが合格するという状態でしたので、我々の技術は非常に優れていたと言えます。「いや、これは素晴らしい」ということでしたが、更に高度な製造技術力を得るため、滋賀県信楽町の近江化学陶器株式会社(当時社長・奥田孝氏、工場長・奥田實氏[現大塚オーミ陶業株式会社社長])と大塚が合併して新会社を設立いたしました。それが大塚オーミ陶業株式会社で、社長には私が就任しました。
転機の訪れと、「世界初」の成功
・ところが、会社設立の昭和48年は、皆様もご存知の通り石油ショックが来まして、石油価格が12倍にも高騰し、ビルの建設が全面停止になるという異常事態が起こりました。我々としても、会社は設立したものの操業が出来なかったのです。その時に役員一同頭を抱えて考えた末、「陶板に絵を描いて美術品の方に移行しようじゃないか」ということになり、まずは尾形光琳の「燕子花」を作りました。なにしろ1メートル×3メートルという大きな陶板が無傷で焼けるものですから、これを数枚並べればよいのです。
そのうち更に大型の美術陶板が制作出来るようになりましたが、より完成度の高い美術品を追求して新しく焼き、作り、且つ壊しながら日々研究努力を続けてまいりました。これから色の道に対する我々の苦労が始まったのです。なにしろ2万点に近い色を開発したのです。元来こういった美術品、殊に今回のような国際的なピカソやミロなどを含む有名絵画を、陶磁器に、しかも原寸大に複製したということは日本は勿論のこと、世界にも例を見たことがありません。その大型美術陶板の開発に大塚が成功したのです。
新しい切り口
・また、昭和50年、私は大鵬薬品の制癌剤の契約でモスクワに行った折に、郊外の墓地をお参りしましたが、フルシチョフのお墓には氏の写真や、別のお墓には大戦で戦死したソ連兵士や看護婦の名刺大の写真が、貼ってあるのを見ました。フルシチョフ氏の写真は、日本の週刊誌くらいの大きさでしたが、これは無論タイルでなく紙写真ですから、表面をビニールで覆ってあるので雨は避けられるものの太陽の紫外線は避けられず、新仏でまだ日が経ってないのに写真の顔は、焼けたり、くすんだりして色褪せておりました。その時私はこれを陶板に焼きつけることが出来れば非常に立派な写真が出来て、永遠に変色なしに保存できると気が付きました。
「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」と言われていますが、実際に名を残せる人は非常に稀です。 しかし、写真陶板で自分の姿を永遠に残すということならば誰にでも出来ます。かつて、中国の景徳鎮や日本の有田焼を積んだオランダ商船がヨーロッパと交易していましたが、途中嵐に遭ってインド洋に沈没した船の荷を、数百年後に引き揚げたところ、陶磁器類は昔のままの色と姿で残っていました。その時代には、陶器はおよそ1,000度で焼いていましたが、現在、我々の美術陶板は1,300度で特殊技術をもって焼くわけですから、1,000年、否、2,000年経ってもそのままの姿で残るに違いないのです。
また一方先祖についていえば、私も祖先は曽祖父辺りまでは知っていますけれども、その上のじいさんばあさんはわかりません。皆様も同じだと思いますが、それは写真がないからです。同様に、日本の天皇陛下のご先祖であらせられる神武天皇とか天照大神、ずっと後の武田信玄や上杉謙信、または織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、毛利元就等々、肖像画はあっても写真は存在しません。けれど、もしこれを大塚の写真陶板で焼き上げていたら半永久的に真実そのままの姿で残るので、日本の歴史も変わっていたことでしょう。我々は、日本の現在の真実の姿を後世に伝えていかなければならないし、また一家の先祖を尊ぶためにも「先祖に供養」「両親に孝養」というのが、我々子どもとしての務めですから、そのためにも立派な写真(肖像)陶板をカラーや白黒で作成したわけです。
大塚国際美術館の設立~徳島への感謝をこめて~
・大型美術陶板・写真陶板の製作に成功した時は、丁度大塚は創業50周年でしたし「これで何か後世に残るもの、我々だけのものでなく、皆様と共有できるものを作ろう」という話がありましたが、それが実現せぬまま、おやじは80歳で亡くなりました。
それから25年経ち、とにかく終戦の時はたった17名の社員であったのが現在は社員23,000人に、殊に徳島県では社員7,000人の企業に成長致しましたことですし、永年大塚が徳島県にお世話になったお礼のために、おやじの遺志でもあり私も同様に考えておりましたので、75周年記念事業として是非とも徳島に造らねばならない、と現在の地、鳴門海峡に西洋の名画のみの美術館を造って、皆様に見て頂くという考えで「大塚国際美術館」を設立いたしました。
変化する色彩~真実の姿を永遠に伝える陶板名画~
・順調に工事も進み、展示作品も1,000点を超える数字となり、現在このように陳列を終えまして、無事開館できる運びとなりました。本館では、東京大学の青柳正規副学長を長として、色々な大学生に美術を教える、ということを基本に考えて古今の西洋名画の中から選んだ作品を展示してあります。
これをよく見ていただいて、実際には大学生の時に此処の絵を鑑賞していただいて、将来新婚旅行先の海外で実物の絵を見ていただければ我々は幸いと思っております。なにしろ、この絵は陶器ですから全然変化しません。本物の絵は次第に変化しますから、実物の色と、陶板名画の色とでは今から50年、100年経っていきますと、色や姿がおのずと違ってくると思います。しかし、どうしても真実の姿を永遠に伝えたい、後世への遺産として保存していきたい、ということで陶板名画美術館設立に至ったわけでございます。
今回皆様にご覧いただき、間違ったところがありましたらご指摘いただいて訂正していき、とにかく1,000年、2,000年貢献していきたい、また徳島県のためにも美術館を通して貢献したいと思っております。簡単ではございますが「一握りの砂」が、この大塚国際美術館設立の基本になったということを皆様にお伝えし、今後のご指導、ご援助をお願いしたいと思います。どうも有難うございました。
[1998年3月、大塚国際美術館初代館長 故:大塚正士(大塚グループ元取締役相談役)]
大塚国際美術館~美術館スタッフギャラリートーク
・最後に、そんな1998年の開館以来20数年で国内外からの評価を飛躍的に獲得した大塚国際美術館ですから、探せば様々なところに情報はありますが、以下にたっぷりとその魅力を伝えている動画がありましたのでこちらも載せておきます。
→ホンモノそっくりと言っても陶板ですから…写真撮影など全く問題ありません。館内でも皆さんパシャパシャ撮られています。人目を気にすることなく映えスポットで名画を思う存分撮影できるなんてそれだけで楽しいですよね。たぶんそんなことできる美術館ってここだけだと思います。ぜひ皆さんも徳島:鳴門へ足を運んでいただき、そんな異世界の体験をしてみて下さい。
(付録)大塚製薬年表<メモ>
・1921年 – 大塚武三郎によって、大塚製薬グループの源流である大塚製薬工場が徳島県鳴門市に創業。
・1947年 – 大塚正士が経営権を継承。
・1953年 – 「オロナイン軟膏」(現・「オロナインH軟膏」)を発売。大ヒット商品となり、大塚製薬発足のきっかけとなる。
・1964年 – 大塚製薬工場から四国以外の販売部門が分社化され、子会社として大塚製薬株式会社が設立。
・1965年 – 「オロナミンCドリンク」発売。
・1970年 – 徳島工場が完成。アース製薬を買収・子会社化。
・1973年 – タイ大塚製薬、大塚製薬アメリカ事務所が設立。
・1974年 – P.T.大塚インドネシア、台湾大塚製薬股份有限公司が設立される。
・1975年 – 北海道に釧路工場が完成(水質の良さを活かした東日本地区の一大拠点)。
・1976年 – 大塚明彦が代表取締役社長に就任。
・1977年 – エジプトにアラブ大塚製薬が設立。
・1980年 – 「ポカリスエット」発売。
・1981年 – 中国大塚製薬有限公司が設立。
・1982年 – 韓国に第一大塚製薬(現・韓国大塚製薬)が設立。
・1983年 – 「カロリーメイト」発売。
・1987年 – 大塚パキスタン、ロンドン事務所が開設。
・1988年 – 徳島に能力開発研究所が完成。「ファイブミニ」発売。
・1991年 – ザ・カルシウムを発売。
・1992年 – 徳島に製剤研究所イソップサンと、ワジキ無菌製剤工場が完成。眼科・皮膚科事業部が発足。
・1993年 – 中国に広東大塚製薬有限公司が、エジプトにエジプト大塚を設立。エネルゲンを発売。
・1994年 – 大塚GEN研究所が完成。
・1996年 – 台湾に金車大塚股份有限公司を設立。
・1997年 – インドネシアにP.T.カパルインダー大塚(後にP.T.アメルタインダ大塚)を設立。
・1998年 – 大塚グループ発祥の地である徳島県鳴門市に大塚国際美術館が開館。大塚製薬ヨーロッパ設立。
・1999年 – 小林幸雄が創業家以外では初めての代表取締役社長に就任。2代目の大塚正士から大塚製薬工場の株式を買い受け、大塚製薬工場の親会社となる。
・2000年 – 樋口達夫が代表取締役社長に就任。「野菜の戦士」「オロナミンCロイヤルポリス」発売。
・2002年 – 中国に四川錫成大塚製薬、天津大塚飲料が、ベトナムに大塚OPV社が設立される。イーエヌ大塚製薬株式会社が設立。ビーンスターク・スノー株式会社に資本参加。「スゴイダイズ」「カロリーメイトゼリー」発売。
・2003年 – 中国に大塚臨床医薬研発、大塚(中国)投資、浙江大塚製薬が、タイに大塚サハ商品開発研究所が設立。輸液に関する四国以外の販売権を大塚製薬工場に委譲。オロナイン液を発売。
・2006年 – ソイジョイを発売。
・2008年 – 岩本太郎が代表取締役社長に就任。大塚ホールディングス株式会社設立により同社の子会社となる。男性向けスキンケアブランド「UL・OS(ウル・オス)」を発売。
・2015年 – 大塚ホールディングス株式会社代表取締役社長の樋口達夫が大塚製薬株式会社代表取締役社長を兼務。
・2022年 – 大阪創薬研究所(仮称)を大阪府箕面市に開設。
…ほぼ10年に1度メガヒット商品を発売している大塚製薬ってあらためてすごいですね…
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