JR東京駅徒歩5分、丸の内に開館。19世紀後半から20世紀前半の近代美術をメインとした企画展で有名 東京:三菱一号館美術館

東京都

 こんにちは。今日ご紹介する美術館、昨日の静嘉堂文庫美術館に続いて三菱に所縁の深い美術館です(「三菱1号館」と称し、グループの一角、大手不動産会社の三菱地所が運営しています)。

 元々「三菱一号館」は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コ21 ンドルによって設計された洋風事務所建築です。老朽化のために1968(昭和43)年に解体されましたが、なんとコンドルの原設計に則って、階段部の手すりの石材や保存されていた部材を一部建物内部に再利用するなど、製造方法や建築技術まで忠実に再現し従来と同じ地に建造されました。

 そんな東京駅から僅か5分というさすが三菱地所所有の超絶好立地の美術館、早速ご紹介していきましょう。

このブログで紹介する美術館

三菱一号館美術館

・開館:2010年 ・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)

・場所:三菱一号館美術館 – Google マップ

JR東京駅徒歩5分、丸の内に開館。19世紀後半から20世紀前半の近代美術をメインとした企画展で有名

・2010年、東京・丸の内に開館したJR東京駅徒歩5分の美術館。19世紀後半から20世紀前半の近代美術を主題とする企画展を年3回開催している。赤煉瓦の建物は、三菱が1894年に建設した「三菱一号館」(ジョサイア・コンドル設計)を復元したもの。コレクションは、建物と同時代の19世紀末西洋美術を中心に、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック、オディロン・ルドン、フェリックス・ヴァロットン作品等を収蔵。館内には、ミュージアムカフェ「Cafe1894」、ミュージアムショップ「Store1894」、丸の内の歴史体感スペース「歴史資料室」を併設。運営は三菱地所がおこなっている。

(参考~三菱一号館の歴史)
・「三菱一号館」は、1894(明治27)年、開国間もない日本政府が招聘した英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された洋風事務所建築。全館に19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式が用いられている。当時は館内に三菱合資会社の銀行部が入っていたほか、階段でつながった三階建ての棟割の物件が事務所として貸し出されていました。建物は老朽化のために1968(昭和43)年に解体されますが、2010年にコンドルの原設計に則って同じ地によみがえりました。復元に際しては、明治期の設計図や解体時の実測図の精査に加え、各種文献、写真、保存部材などに関する詳細な調査を実施。階段部の手すりの石材など、保存されていた部材を一部建物内部に再利用したほか、意匠や部材だけではなく、その製造方法や建築技術まで忠実に再現するなど、さまざまな実験的取り組みが行われています。

三菱一号館美術館 パンフレット

美術館のミッション

・街に開かれた美術館として、そこで働く人々、訪れる人々の利便性を重視し、 「都市生活の中心としての美術館」という視点で運営を行います。
・国内外の美術館や周辺の文化施設との連携・ネットワークを築きながら、長期的・国際的な視野での美術館活動を目指します。
・明治期に原設計された建物と収蔵作品の特性に配慮し、近代市民社会、産業社会原点ともいうべき 19世紀の近代美術を中心とした展覧会を開催します。
・変貌する現代の美と歴史的美の系譜との結節点を求めて、学術的意義の深い展覧会を、新たな切り口で展開していきます。

→19世紀の近代美術を中心に取り扱うことで有名です。

主なコレクション

モーリス・ジョワイヤン コレクション

・トゥールーズ=ロートレック(1864~1901)が没するまで手元で保有した272点あまりのグラフィック作品のコレクション群です。ロートレックの親友にして最大の理解者であった画廊主モーリス・ジョワイヤンに一括して譲られ、その近親者の手で近年まで保管されたことで、散逸を免れました。  

→三菱一号館美術館、2009年よりフランス南西部のタルン県アルビ市にあるトゥールーズ=ロートレック美術館(Musée Toulouse-Lautrec, Albi – Tarn)との姉妹館提携をされているようです。

『レスタンプ・オリジナル』と19世紀末版版画

・1893年から1895年にかけてパリで限定版として発行された版画集。ロートレックやピエール・ボナール、モーリス・ドニ、ポール・ゴーガンをはじめとして、19世紀末のパリで活躍した著名芸術家による様々な技法の版画約100点が含まれます。※そのうち三菱一号館はスイスのコレクターであるサミュエル・ジョセフォヴィッツ氏がかつて所有したコレクションを中心に収蔵されています。

ジョン&ミヨコ・ウンノ・デイヴィー・コレクション

・ニューヨーク在住のコレクターが「生活のなかのジャポニズム」をテーマに半生をかけて蒐集した珠玉の美術工芸品群。174点の陶磁器、銀器、ガラス作品等からなる。

オディロン・ルドン《グラン・ブーケ(大きな花束)》

・1897年、ロベール・ド・ドムシー男爵が、ブルゴーニュ地方ヴェズレー近郊の城館の食堂装飾をルドンに依頼したシリーズ。 装飾画は1900年から1901年にかけて設置され、16点が現存します。 《グラン・ブーケ(大きな花束)》をのぞく15点は1978年に食堂から外され、現在ではオルセー美術館が所蔵。三菱一号館美術館が所蔵する《グラン・ブーケ》は食堂の装飾の中心であっただけでなく、ルドンが描いたパステル画としては最大で、装飾画の歴史上重要な作品となっています。

フェリックス・ヴァロットン《公園、夕暮れ》と版画コレクション

・スイス、ローザンヌ生まれの画家、ヴァロットン(1865-1925)の作品群、版画を含め約187点を収蔵。19世紀末の前衛芸術グループ「ナビ派」の一員として、 ボナールやヴュイヤール、ドニらとともにパリで活動。パリの群衆や戦争の一場面、男女の親密な関係などを白と黒のみの大胆な構図で描き出した木版画は、 後世の芸術にも影響を与えました。

ジャポニスム文献

・19世紀に西欧を席巻したジャポニスムの運動に関する同時代発行の貴重文献を精選したコレクション群。山本芳翠による挿絵が施された、ジュディット・ゴーチエの詩集『蜻蛉集』(1885年)を含む版画集、美術商であったジークフリート・ビングが発行した『藝術の日本』全36巻(1888〜91年)等の雑誌や書籍、各都市で開催された万国博覧会の出品目録や陶磁器や浮世絵等の日本美術の売立目録、その他の資料137点からなっています。

…いかがでしょう。三菱一号館美術館、そのコレクションは19世紀後半から20世紀前半、ロートレックやルドン、ヴァロットンなど海外のアーティストを中心に収蔵されているのは国内の他館と比べ珍しいのではないかと感じます。私のブログでは大阪中之島美術館富山県美術館宮城県美術館で一部ロートレックのコレクションが出てきましたが、ここまで体系的に収蔵しているのは初めてではないでしょうか。(ヴァロットンについては初かも…)

いずれにしろさすが日本が世界を代表する企業の私設美術館、そのコレクション方針も何となく他館と比べ特徴が良く出るように設定されているような気がします。

そんな三菱一号館美術館、公式ブログも開設されています。(https://mimt.jp/blog/official/
JR東京駅からも徒歩5分という好立地、ご来館の際はぜひブログを一読いただき、足を運んでいただけるとより一層魅力が伝わるのではないかと思います。
引き続き、本ブログ「絵本と、アートと。」をよろしくお願いします。

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(参考)トゥールーズ=ロートレックとは

(せっかくなのでロートレックおさらいしておきます)

・フランスの画家、版画家。後期印象派の一人。
 1864年11月24日、南フランスのアルビに、フランスの大貴族の一人アルフォンス・トゥールーズ・ロートレック伯爵の嫡子として生まれる。少年時代は、パリの館(やかた)やオードにある母アデール・タピエ・ド・セレイランの館で過ごすことが多く、乗馬や狩猟に親しむ貴族的な生活を送り、かたわら絵画にも早くから才能を示した。

 しかし、14歳から15歳にかけての二度の事故で両足を骨折して以来、下半身の成長が止まり、以後、絵画に専念。当時の彼の絵の教師は、父の友人であった動物画家ルネ・プランストーで、ロートレックの描く主題も、馬、馬車などを主とし、的確な素描力、速度感の描出、光のとらえ方に早熟な天分を示している。

 1882年パリに出てレオン・ボナ、フェルナン・コルモンの画塾に学び、ここで、エミール・ベルナール、ゴッホに出会っている。ロートレックが新印象主義の点描法を採用したのは、ゴッホとの親交からきている。1884年モンマルトルにアトリエを構える。

 彼の独自な主題であるモンマルトルの歓楽街の情景の描写が多くなり、画風も印象主義からしだいに離れる。ナビ派の画家たちとの交流とその影響もあったが、ロートレックが終始尊敬したのはドガとフォランJean-Louis Forain(1852―1931)であり、パリ風俗の、ときには辛辣だが、同時に深い共感を込めた作品が描かれる。ムーラン・ド・ラ・ギャレット、ムーラン・ルージュ、ミルリトンなどのキャバレー、そこで踊るラ・グーリュとパートナーの骨なしバランタンなどの踊り手が、線描とシルエットに重点を置き、人工光線の効果を求める手法で描かれる。『ムーラン・ルージュにて』(1892・シカゴ美術館)などにみられる、視角の設定の自由さ、前景に大きなシルエットを置く構図法は、ドガとジャポニスム(日本趣味)に由来している。

 1892年ごろからイベット・ギルベール、メイ・ベルフォールなどの歌手たちに興味をもち、的確な線描やシルエットで彼女たちの個性やその背後の生活を表現している。また、彼自身しばしば流連(いつづけ)し、多くの友人をもった女郎屋もロートレックの主要な主題の一つとなった。フェルナンド・サーカスの曲馬師、軽業(かるわざ)師などもそうである。

 1890年代はロートレックの画業の成熟期であり、1893年にブソ・エ・バラドン画廊で行われた最初の個展は彼の名声を確立させた。技法的にも、カンバスだけではなく、板、紙、厚紙などに、油、揮発性のエッサンス油、水彩などを併用して描く手法を試みている。とくに、1891年にボナールに続いて試みた石版画によるポスター『ムーラン・ルージュ、ラ・グーリュ』以後、多くのポスターを制作、この分野に決定的な革新をもたらした。油彩の場合以上に大胆な省略とデフォルメ、クローズアップの手法は、この時期のアール・ヌーボー様式やジャポニスムに対応し、また20世紀のポスター芸術の出発点となった。1892年から1899年の間に約300点の石版画を制作しているが、ここでもブラシと網目を用い、インクの飛沫(ひまつ)を利用するなど、さまざまな新手法をみいだしている。

 しかし、飲酒と放縦な生活は、やがて彼の精神と肉体を病ませ、1899年には病院に入院、まもなく退院したが、1901年9月9日マルロメにある母の館で没した。1922年、ロートレックの母が、残された作品約600点を生地のアルビに寄贈し、ロートレック美術館が創設された。

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