こんにちは。今日ご紹介する方、先に名前を言っておきます。
「岡倉天心」です。
…皆さん、一度は名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。「日本史で習った」とか「なんかよく分からないけどすごい人」とか、少し詳しい方は東京美術学校(現:東京藝術大学)の設立に貢献し、初代校長となった人など…様々なイメージがあると思います。
個人的には、岡倉天心、少し違う想いを抱いています。
…岡倉天心、恐らく皆さんがイメージしている人物像よりも遥かに(良い意味で)とんでもない人です。ゲームに例えるならラスボスが岡倉天心(ちなみに裏ボスは千利休)ってくらいすごい方なのです。
そんな岡倉天心、晩年の10年を茨城県の景勝地、五浦海岸で過ごしたのはご存知でしょうか。今日はそんな日本美術界の巨星、岡倉天心が学べる美術館のご紹介です。
このブログで紹介する美術館
茨城県天心記念五浦美術館
・開館:1997年 ※ちなみに「五浦」と書いて「いづら」と読みます。
・美術館外観(以下、画像は美術館HP及び県・市観光協会HPより転載)
→横浜市出身の建築家、内藤廣氏の設計・建築。代表作に鳥羽市立海の博物館、島根県芸術文化センターなど。
・場所
茨城県天心記念五浦美術館 – Google マップ
→福島県と茨城県の県境に立地しています。都内からだと2時間半くらいでしょうか…遠いですね。
五浦海岸とは
・大小の入り江、大小の磯、高さ約50mの断崖絶壁など、波による浸食で形成された地形が続く(海食崖)。海底油・ガス田の硬成分から形成された炭酸塩コンクリーションが奇岩を成し、亀ノ尾層(珪藻質砂岩、珪藻質砂質頁岩)、多賀層群などの地層が見られる。崖の上にはクロマツが生えている。南から「小五浦」「大五浦」「椿磯」「中磯」「端磯」の五つの浦(磯)を称して五浦という。陸前浜街道(国道6号)を日立から勿来関(奥州三古関の1つ)跡に行く道程の途上にある。日本の渚百選。日本の音風景100選。茨城百景。日本の白砂青松100選。日本の地質百選。
※写真はニッポン旅マガジンより転載 https://tabi-mag.jp/ib0014/</span
また、美術館の方でも五浦の魅力を発信するため、Youtubeサイト「天心さんチャンネル」を開設し、空撮した動画を公開されています。
[天心さんチャンネル]
五浦海岸の入江と美しい松林に佇む大思想家の夢
・天心記念五浦美術館は、岡倉天心や横山大観をはじめとする五浦の作家たちの業績を顕彰するとともに、優れた作品が鑑賞できる美術館として1997年11月に開館。北茨城市の五浦は、1906年に日本美術院第一部(絵画)が移転し、岡倉天心や五浦の作家たちが活躍した歴史的な地。天心や五浦の作家たちに関する様々な資料を所蔵、研究しており「岡倉天心記念室」でそれらを紹介しています。
美術館の建築設計は、美術館、博物館、駅舎など数多くの公共施設の設計で知られる内藤廣によるものです。
岡倉天心とは(テキスト紹介)
・生年:文久2.12.26(1863.2.14)~没年:大正2.9.2(1913)
-----------(以下、岡倉天心略歴)------------
・明治期の美術行政家。美術界の指導者。美術史家思想家。幼名覚蔵(角蔵)、のち覚三,天心は号。
横浜本町に岡倉覚右衛門,野畑このの次男として生まれる。福井藩士だった父覚右衛門は、藩命によって「石川屋」を名乗り、福井の特産品や生糸の商いをしていた。
明治3(1870)年母このが急逝、翌年父が大野しずと再婚した際、天心は兄弟と離れて長延寺にあずけられる。
この前年明治2年,天心はジェームズ・バラの塾で英語を、また長延寺玄導和尚から漢籍を学び,国際性豊かな天心の基礎が作られる。
1873年一家は上京し,天心は東京外国語学校に入学。1875年には東京開成学校(のちの東京大学)に入学、政治学、理財学を学ぶ。
1880年東京大学文学部を卒業。卒業論文は初め「国家論」を書いたが、前年に結婚した大岡もととの痴話げんかから焼かれてしまい、2週間で「美術論」を書き上げる。
同年文部省に入り、このころから大学の師アーネスト・フェノロサの日本美術研究の通訳や助手を務め始める。
1886年10月から1年間,フェノロサとともに美術取調委員として欧米の美術事情と諸制度を調査。
1887年新設された東京美術学校(東京芸大)の幹事、1890年校長となり、日本における美術学校という制度を実現。また、帝国博物館の設立にも九鬼隆一とともに尽力。
1889年帝国博物館理事・美術部長となる。
創作美術の指導者として1887年代以降日本画革新運動を先導。
西洋絵画の摂取による新たな伝統美術の創出をめざし、東京美術学校での活動のほか、1896年日本絵画協会、1898年日本美術院を結成。同年、東京美術学校騒動後,同校および帝国博物館を辞職し官職を離れる。
1901年インドに旅行し,1904年からはボストン美術館に勤務して日米を往復。
英文著作『東洋の理想』(1903年,ロンドン),『日本の覚醒』(1904年),『茶の本』(1906年,ともにニューヨーク)を次々に刊行。日本東洋の美学を多分に政治論的,文明論的に論じながら西欧世界に紹介。
1913年、越後赤倉山荘で死去。
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→注目してほしいのは、「12歳で東京大学入学」、「23歳で東京藝術大学の初代校長」になったという経歴です。時代が違うとは言え、どれだけの偉人だったか分かりますよね。そして今回ご紹介している五浦と天心の所縁は、上で赤マーカーした東京美術学校(現:東京藝術大学)および帝国博物館を辞職し官職を離れた後の話になります。
天心はこの五浦の景色を見るとすぐに気に入り、ここに拠点を構えることを決心したそうです。恐らくまだ当時は東京から遠く離れた未開の地だったのではないかと思いますが、個人的には後にも先にも現れないような傑物:岡倉天心でも、7歳の時にお母さんを亡くしたことは結構な心の傷となったことは間違いなく、そのお母さん含め両親の故郷で、天心も何度も足を運んだであろう福井県の海岸の景色に何か惹かれるものを感じたからではないかと推測しています。
岡倉天心とは(動画紹介)
なお、岡倉天心について、もっと詳しく知りたい方、文字よりも動画で学びたい方は以下のYoutube動画も大変解りやすい内容になっていましたのでご紹介しておきます。(お好きなやつをクリック)
→日本人の美意識の中に「空白」や「虚」があることを突き止め世界へ紹介した天心…確かに海外の美術館など行くと、その作品そのものの情報量だけでなく館内にも所狭しと作品が並んでいて正直お腹一杯になることってありますよね。海外と対峙したときに日本人が感じる違和感、そんなことを解りやすい言葉で表現した最初の人なのかもしれません。
収蔵品リスト
・茨城県天心記念五浦美術館、その収蔵品のリストがHPにありますので掲載しておきます。
茨城県天心記念五浦美術館収蔵品リスト
→ちなみに岡倉天心の主な弟子は横山大観、木村豊山、菱田春草、下村観山とそうそうたる面々です。「弟子」と言いますが、実際に天心がテクニカルな絵の描き方を教えたのではなく、朦朧体※など、その絵に繋がる思想や表現方針などについて教えを説いたという立ち位置です。(天心、絵描きとしてよりもそのコンセプターとしての働きが素晴らしいのです)
※朦朧体とは…明治期の日本で試行された日本画の画風で、空気や光線などを表現するために、輪郭線を用いずにぼかしを伴う色面描写を用いるもの。岡倉天心の指導のもと、横山大観や菱田春草ら日本美術院の画家たちが、西洋画風の大気描写を日本画の新しい表現として実現させるために始めた実験。こうした試みは、混濁した色彩による曖昧模糊とした画風や、当時は日本画を東洋絵画たらしめる前提と認識されていた墨線を否定したことが批判され、日本では非難と揶揄も込めて「朦朧体」「縹緲体(ひょうびょうたい)」などと評された。しかし大観らは、琳派などの古美術研究や、欧米滞在中の西洋絵画学習などを契機に、水彩的表現をとることで朦朧体の色彩混濁を解決、その後は筆線よりも色彩を重視する方向性を洗練させ、明治末頃には琳派的な新画風を創出していった。朦朧体の典型的な作品には、横山大観《菜の葉》(1900)、菱田春草《王昭君》(1902)などがある。(Artscapeの美術用語辞典Artwordsより)
※画像は比較文化学者、藤田昌志のブログより転載(https://fujita.muragon.com/entry/126.html)
(付録)岡倉天心と千利休、そして徳川家康
・岡倉天心が日本人と現代にまで繋がる日本という国の美意識・文化について形にした中興の祖だとしたら、千利休はその考え方や感性を最初に生み出したクリエイターだと言えるかもしれませんね。そして、私個人としてはその千利休と同時期に生きた徳川家康も千利休とある点で同じ価値観を抱いていたのでないかと考えています。
ここに面白いブログ記事があります。
・千利休は家康のフィクサー https://note.com/dadamail/n/nf729eb8e00f5
岡倉天心が日本文化の源流だと記した千利休とその茶道文化、千利休自身は秀吉との利害関係や家康スパイ説なんかを言われることがありますが、個人的には千利休ほどのアーティストがそんな理由で死を受け容れるとは考えられないと昔から思っています。
―「意図して死んだ」―
彼はもっと大きな何百年も先を見ていた気がするし、それは日本で初めて武家諸法度という1人のカリスマに頼らない統治制度をつくった家康も同じ。
実は千利休は自害する直前、徳川家康を招き茶会を催したことが知られています。(だからこそ家康スパイ説なんかが取り立たされるのですが…)
ここで何を話したかは、もはや神のみぞ知る内容かもしれませんが、私の妄想では、そこで間違いなく彼らが死を目前に(家康も1615年の武家諸法度制定の翌年に亡くなっています)、これからくる何百年後の世界について話し合ったのではないかと推測しています。
つまり千利休も徳川家康も、自分たちが死ぬことで最後のピースが埋まり完成する「文化」や「社会」を想像していたのではないでしょうか…
…はい、ここは美術館紹介のブログですから、マウスの妄想も大概にして、そんな古今東西の思想にふけることができる「茨城県天心記念五浦美術館」、ぜひ皆さんも足を運んでみて下さい!
(マウス)
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