こんにちは。今日は全国にある美術館、とりわけ私立美術館の中でトップクラスの伝統をもつ美術館です。「美術館の格」という考えは個人的には好きではないですが、そういう意味ではアーティゾン美術館(旧:ブリかヂストン美術館)、ポーラ美術館など(…まだご紹介していないですが)全国には日本の美術界を現代においてなおリードしている、いわゆる「格が高い」と内外ともに一目置かれる私立美術館が存在するのも事実です。今日ご紹介する美術館、「美術館の格」理論が嫌いな自分でも西の横綱と認めざるを得ない、それくらい日本の文化創成期から美術、芸術を引っ張ってきた歴史ある館です。そこをしっかりとリスペクトしながらご紹介していきたいと思います。それでは早速。
このブログで紹介する美術館
大原美術館
・開館:1930年 ※もうすぐで創立100周年ですね
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会より転載)
・場所
大原美術館 – Google マップ
→岡山県は倉敷市が世界に誇る美術館です。
西洋美術を中心とした日本で初めての私立美術館
・倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家:大原孫三郎氏が、前年に死去した画家:児島虎次郎氏を記念して1930年(昭和5年)に設立した日本最初の西洋美術中心の私立美術館。
日本美術のコレクターでもあった孫三郎氏、親しい友人の虎次郎氏の才能と、美術に対する真摯な姿勢を高く評価し、三度にわたる渡欧をうながしました。虎次郎氏は、そこで制作に励むかたわら、孫三郎氏の同意のもと、日本人としての感覚をいかしてヨーロッパの美術作品を選び取るという作業に熱中。虎次郎氏は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選定、倉敷にもたらします。同時に中国、エジプト美術も収集し、東西の文化の源流に迫ろうとしました。
大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術、日本の近代から現代の美術、民芸運動にかかわった作家たちの仕事等にコレクションを広げ、日本人の心情に裏打ちされた独特の個性を発揮するユニークな民間総合美術館として世界に発信されています。
→いかがでしょう。覚えておられますでしょうか。このブログでも何度も登場する100年を生きる画家:野見山暁治さん、彼はこんなコメントを残していましたね。
~野見山暁治 人はどこまでいけるか (のこす言葉 KOKORO BOOKLET)より~
・僕はパリに行きたかった。今から思うとそれは執念、生きがいだった。それを見ないで死ぬということはできない。~(中略)~今と違って戦前は公立の美術館が日本には1軒もなくて、倉敷の大原美術館のほかは三宅坂の三井コレクションが週に一度、午後の三時間だけ絵を見せていた。大原美術館では、マチスの娘を描いた絵と、グレコの「受胎告知」、そればっかり見にいった。~(中略)~フランスがどういう国だか、セザンヌの絵に出てくるような風景が実際にあるのかさえわからないわけよ。–みんな信じられないだろうけど本当にそうだった。セザンヌもゴッホも、デッサン一枚さえ、ほんものを見たことがないんだよ。あの時代、そりゃあもう、みんなパリに行きたかったんです。
→これだけでも大原美術館が日本のアートシーンに残した偉大な功績というのが解っていただけるのではないかと思います。
大原美術館の5つの使命
・大原美術館は現在、以下の「アートとアーティスト」、「鑑賞者」、「子どもたち」、「地域」、「日本と世界」という5つの使命を掲げ運営をされています。
アートとアーティストに対する使命
・先人の偉業を保全・顕彰し、新しい創造活動への挑戦を支援・推進する使命。
あらゆる「鑑賞者」に対する使命
・人生がより豊かで真実味あるものとなるように、美術や文化に接する自由で良質の場を提供する。
子どもたちに対する使命
・明日を担う子どもたちが幼児から美術や文化にかかわることが出来るように、さまざまな体験の場を提供する。
地域に対する使命
・誇りと愛着を持って倉敷に生き、質の良い日本と世界の出会いの場として地域とともに生き続ける。
日本と世界に対する使命
・世界の人々の相互理解と融和を進め、日本文化の心根を広く世に伝えるために、「多文化理解の装置」としての美術館を磨き高める。
主なコレクション
・大原美術館は大別して以下の6つを軸に収集、展示を進めているそうです。(作品群は多岐にわたるため美術館HP内の検索ページURLのみ掲載しておきます。
海外の美術
〇https://www.ohara.or.jp/collection_search/?search_category%5B0%5D=0
日本の美術
〇https://www.ohara.or.jp/collection_search/?search_category%5B0%5D=1
21世紀の美術
〇https://www.ohara.or.jp/collection_search/?search_category%5B0%5D=2
民芸運動ゆかりの作家たち
〇https://www.ohara.or.jp/collection_search/?search_category%5B0%5D=3
東洋の古美術
〇https://www.ohara.or.jp/collection_search/?search_category%5B0%5D=4
古代オリエントとイスラム、ヨーロッパの古美術
〇https://www.ohara.or.jp/collection_search/?search_category%5B0%5D=5
今を生きる人たちとともに生き成長していくこと
大原孫三郎と児島虎次郎
・大原孫三郎氏は、1880(明治13)年、倉敷に生まれます。大原家はこの地でも屈指の地主で、孫三郎氏の父:孝四郎は、1887(明治20)年に倉敷紡績を立ち上げた実業家でした。若き孫三郎氏は東京専門学校(現在の早稲田大学)に学びますが、学業よりも遊興に身を投じ、倉敷に連れ戻されるような生活を送ったそうです。その後、自らの行いを悔い改め、後に孝四郎のあとを継ぎ、企業経営者として得た利益を様々な社会事業にも還元します。
一方、児島虎次郎氏は、1881(明治14)年、現在の岡山県高梁市成羽に生まれました。1902(明治35)年、東京美術学校西洋画科へ入学することとなった虎次郎氏は、孫三郎氏が立ち上げた大原奨学会からの支援を得るため、大原家を訪ねます。孫三郎は、虎次郎の誠実な人柄にほれこみ、奨学生となることを約束。 以来一歳違いの二人は、生涯の親友としてともに歩むことに。
奨学金を得た虎次郎は、熱心に学び、山本鼎、青木繁、熊谷守一らといった多くの秀才が在籍する中、 虎次郎氏は、二度の飛び級により、わずか二年で美術学校を卒業。更に研究科(現在の大学院)に学んでいた1907(明治40)年、東京府勧業博覧会の美術展に応募し、《なさけの庭》が一等賞宮内省(当時)買い上げという快挙を果たします。これを喜んだ孫三郎氏は、虎次郎氏にヨーロッパへの留学を勧め、 1908(明治41)年、虎次郎氏は、フランスのパリ、その後ベルギーのゲントへ移り、同地の美術アカデミーに学び、そこでも首席で卒業し帰国。倉敷へ戻った虎次郎氏は、現在の倉敷市酒津に新居とアトリエを構えます。
美術館開館へ
・1919(大正8)年、孫三郎氏の勧めにより、虎次郎氏は第一次大戦後のヨーロッパへ再び留学。そのとき、虎次郎氏は「個人としての願いではなく、日本の芸術界のため」という理由から、美術作品の収集活動を孫三郎氏に願い出ます。一方で、孫三郎氏は西洋の美術作品を収集し公開することが、日本の社会においてどのような意味を持つことなのか、慎重に見極めようとしたそうです。孫三郎氏が返事を送ったのは、初めの進言からおよそ一年を経て。許しを得た虎次郎氏は、当時、すでに巨匠と認められていたモネ、マティスらを訪ね、モネからは《睡蓮》を、マティスからは《マティス嬢の肖像》を購入しました。
その他にもマルケ、セルジエなど20点あまりの作品を集め、1921(大正10)年に帰国。帰国の翌月、倉敷市内の小学校を会場に、それらの作品を公開しました。すると、倉敷駅から会場まで長蛇の列が途絶えることがなかったと言われるほど、全国から多くの観客が押し寄せることに。この様子を見た孫三郎氏は作品収集の意義を確信したそうです。そして、今度は作品収集のために、虎次郎氏を三度目のヨーロッパへ行かせます。その際に収集されたのが本美術館で現在最も有名な作品群であるエル・グレコ《受胎告知》、ゴーギャン《かぐわしき大地》、セガンティーニ《アルプスの真昼》などの作品たちでした。 その後、虎次郎氏は、1929(昭和4)年、47歳という若さで亡くなってしまいます。
早すぎる死を悼んだ孫三郎氏は、虎次郎氏が収集した作品、そして虎次郎が画家として描いた作品を公開するために、美術館建設を決意。当時は自身が社長を務める倉敷紡績の経営も順調でなかったそうですが、1930(昭和5)年に大原美術館は開館。それは、虎次郎氏との友情を記念するものでもあり、また「広く社会に意義あること」や「今を生きる人々にとって意義あること」を願うものであったそうです。
大原總一郎の時代を経て~現在
・第二次世界大戦後、孫三郎氏の跡を継いだ息子:大原總一郎氏、彼もまた「美術館は生きて成長してゆくもの」という信念のもと、所蔵作品の拡充と展示場の増設を行いました。
まず、孫三郎氏と虎次郎氏が始めた西洋近代絵画のコレクションの拡充を図り、いわゆるエコール・ド・パリと称される1920年代パリを拠点に活躍した画家たちの作品を収集。また新しい美術の動向にも目を向け、ヨーロッパ、アメリカの同時代の作家たちの作品も集めました。加えて、近代日本の絵画を積極的に収集。それらは、美術の歴史を体系的に追うことよりも、新たな価値を創造しようとする作品という独自の視点で選び抜かれたもので、それらを展示する場所として、1961(昭和36)年、現在の分館を増設。
加えて、孫三郎氏の時代から親交のあった民藝運動に関わる作家たちの作品も広く収集し、現在の工芸館を、1961(昭和36)年から1963(昭和38)年にかけて建設。總一郎氏亡き後[1968(昭和43)年没]も、大原美術館の拡張は続き、東洋館[1970(昭和45)年]、児島虎次郎記念館[1981(昭和56)年]、分館地下展示室[1987(昭和62)年]、などが相次いで完成。 1991(平成3)年には、本館も大きく増設されました。
大原美術館は、「今を生きる人にとって意義あることは何か」という問いかけと、「美術館は生きて成長してゆくもの」という信念のもと、いま私たちがなすべきことを考え、展示や教育普及活動を行っているそうです。今を生き、未来をつくる子どもたちと、それを支える教員、保護者、地域の方々にとっても、意義ある存在となり、また共に成長していきたいと考えており、将来成長した子どもたちが、日々を生きる中、折にふれ倉敷:大原美術館を思い出し、訪れ、生きる力を得てくれるような美術館を今も目指し続けられています。
(付録)大原美術館 年表
1930(昭和5)年 4月19日工事着工、11月5日完成。大原美術館と命名。日本最初の西洋美術中心の私立美術館として、倉敷に誕生。初代館長として武内潔真氏就任。
1943(昭和18)年 、大原美術館の創立者大原孫三郎氏逝去。享年62歳。
1946(昭和21)年 、第1回美術講座開催。講師・須田国太郎。
1949(昭和24)年 、皇太子殿下台臨。
1950(昭和25)年 、開館20周年記念式を挙行。開館20周年記念行事開催。
1951(昭和26)年 、アンリ・マチス展開催。パブロ・ピカソ展開催。
1952(昭和27)年 、ジョルジュ・ブラック展開催。
1953(昭和28)年 、ジョルジュ・ルオー展開催。
1955(昭和30)年 、開館25周年記念行事開催。
1956(昭和31)年 、皇后陛下行啓。
1960(昭和35)年 、開館30周年記念行事開催。
1961(昭和36)年 、新渓園内に建設中の分館完成、竣工式を挙行。分館を近代日本の洋画、古代オリエント美術の常設展示館として公開。陶器館の開館式をおこなう。
1963(昭和38)年 、芹沢けい介染色館、棟方志功板画館完成。
1964(昭和39)年 、第2代館長として藤田慎一郎氏就任。大原總一郎、第2代理事長に就任。
1965(昭和40)年、西洋の戦後現代絵画常設展示。開館35周年記念行事開催。
1970(昭和45)年、東洋館完成。開館40周年記念行事開催。
1972(昭和47)年 、児島虎次郎室を開館。
1973(昭和48)年 、年間入館者数が100万人を越す。
1980(昭和55)年 、開館50周年記念行事開催。
1982(昭和57)年 、第1回ギャラリー・コンサート開催。
1991(平成3)年、大原謙一郎氏、第4代理事長に就任。本館増改築工事完了。
1998(平成10)年、入館者数2,800万人突破。第3代小倉忠夫氏館長就任。仙石襄・哲子記念基金設立。
2002(平成14)年 、第4代高階秀爾氏館長就任。入館者3000万人突破。チルドレンズ・アート・ミュージアムを開催。以後毎年8月の土日に開催することに。
2005(平成17)年 、ギャラリーコンサートが100回を迎える。ARKO(Artist in Residence Kurashiki, Ohara)事業開始。第1回目招聘作家は津上みゆき氏。以後毎年作家を公募し、招聘。
2006(平成18)年 、「インパクト 東と西の近現代―もう一つの大原美術館」展開催。
2007(平成19)年 、AM倉敷(Artist Meets Kurashiki)事業開始。第1回目はログズギャラリー。
以後、不定期に開催。
2010(平成22)年、大原美術館創立80周年記念特別展「大原BEST」開催。大原孫三郎氏生誕130年記念特別展「大原孫三郎 日本美術への眼差し」開催。創立80周年記念行事開催。
2011(平成23)年 、財団法人から公益財団法人へ移行。
(付録)大原孫三郎氏の業績
・美術館HPには大原美術館の創立者:大原孫三郎氏の業績が載っています。
倉紡中央病院
・孫三郎氏は、倉敷紡績で働いているたくさんの人やその家族の健康を守るためには、いろいろな病気やけがを治療することができる大きな病院が必要だと考えていたそうです。倉敷ではインフルエンザがはやり、多くの人がなくなっていました。そこで孫三郎氏は、倉紡で働いている人だけでなく、倉敷に住むすべての人がみんな同じように利用できる病院をつくることを決心。病院をつくるために、優秀な医師を連れてきたり、病気のことを研究するために必要な医学書をたくさん集めました。また、外国の病院を見学させ、すばらしいところを取り入れました。1923(大正12)年、病院は完成。孫三郎氏は、病院の中に温室の休憩室をつくり、一年中植物や花を楽しむことができるようにしたそうです。壁やドアなどの色にも気をくばり、病院内のいろいろなところには絵(名画の複製)が飾られ、病院の中を明るくし、病気の人たちが少しでも気持ちよくすごせるようにと心がけました。他に、看護婦のための住まいやプールを準備するなど、働く人のことも考えられており、80年以上前ではこのような病院はたいへんめずらしいものでした。
私立倉敷補修学校
・1902(明治35)年、孫三郎氏が倉敷精思高等小学校の教室を借りて開いた学校。学んでいたのは、会社や工場、商店などで働いているため、昼間学校に通うことのできない人たちで、学校は夜開かれ、生徒たちは商業についてのことや英語、数学、修身(今の道徳のようなもの)を中心に勉強していました。孫三郎氏は校長となり、修身を教えました。23才という若い校長で、倉敷の人たちに教育を受けさせようとする、孫三郎の熱心さが今なお伝わっています。
財団法人倉敷奨学会
・明治、小学校を卒業すると働く人が多かった時代、もっと勉強したいと願っている人のために勉強を続けることができるよう学費を補助するためにつくられたのが倉敷奨学会でした。孫三郎氏は、た学費をあたえるだけでなく、はげましの手紙を一緒に送ったり、直接会って話をしたりするなど、若者たちが立派に成長するように心がけました。児島虎次郎氏もそのうちの一人でした
日曜講演会
・有名な学者や作家などをまねいて、毎月1回、倉敷の人のためになる話を聞く会を開催。1902(明治35)年、第1回倉敷日曜講演会が開かれます。600人以上の人が会場につめかけ、講演会は大成功。その後、幾多の試練を乗り越え、日曜講演会は23年間続き、全部で76回開催されます。「わしの目は10年先が見える。10年たったら世の中の人に、わしのやったことがわかる」と孫三郎氏はよく言っていたそうです。旧5千円札に印刷されている新渡戸稲造や、早稲田大学をつくり総理大臣にもなった大隈重信も講演会にまねかれます。 講演会は、孫三郎とその息子の名前をとって「大原孫三郎・總一郎記念講演会」として今も続けられており、孫三郎氏の「倉敷の人たちの教育のために」という思いが人々にうけつがれ、今も生き続けているそうです。
大原奨農会・農業研究所
・大原家は、500ヘクタール(東京ドーム、約107個分)の田畑を持ち、そこではなんと2500人もの小作人が勤務。早くから家で働く小作人のすがたを見て育った孫三郎氏は、農業に関心をもっていたそうです。1914(大正3)年、孫三郎氏35才のとき、農業研究所をつくります。種や肥料、害虫・病気などの研究が進められ、図書館も建設。岡山県の代表的な果物であるももやぶどうの新しい品種が、この研究所で生み出されたことは有名で、この研究所が、「果物王国」とよばれる岡山県のもとをつくりました。
大原社会問題研究所
・1919(大正8)年に建設。前述の通り、当時は小学校卒業後に子供たちが働いていた時代。当時、苦しい生活を送っていた子どもたちを助けるため、どうすればゆたかな人々とまずしい人々の差がなくなり、みんなが幸せにくらすことができるようになるか研究が進められました。
…いかがだったでしょうか。大原美術館とその設立に尽力した大原孫三郎氏と児島虎次郎氏、そして中興の祖:大原總一郎氏。本ブログは基本的に美術館の想いに沿ってHPを基本に引用しているのですが、それだけでも8千文字近くになりました。恐らく、前にご紹介した金沢21世紀美術館並の情報量です。それほどまでに美術館が地域・社会、業界に果たした役割、期待されるもの、また逆に美術館側から我々に発信したい想いというのが明確にメッセージとして持っている美術館だと言えるかもしれません。
そんな西の横綱、大原美術館、ぜひ皆さんも一度のみならず、二度、三度と足を運んでみて下さい。きっとその時々でまた見え方が変わるのではないかと思います。それではまた。
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