こんにちは。今日ご紹介する美術館、今からちょうど100年前の軽井沢が舞台です。1920年頃、著名なとある学校の創設者でもある方は与謝野寛氏、与謝野晶子氏、河崎なつ氏、石井柏亭氏、有島武郎氏ら著名な歌人や画家、小説家などと軽井沢に滞在し、今後の子供達のための個性と自由な学校を創る構想を練ったと言われています。その後、東京の神田駿河台に文化学院という専修学校を創設、2018年に閉校するまで美術、文芸、音楽、ダンス、演劇、声優、放送・映画、アートデザインと数多くの芸術界で活躍する生徒たちを世に送り出してきました。(その中には2015年に文化勲章を受章された染織家、紬織の人間国宝:志村ふくみさんも含まれています)
そんな歴史ある学校の創設者の理念が眠っている場所(美術館は学院創設当時の校舎を再現されています)、どんな館なのでしょう。もしかしたら美術だけでなく、教育関係者も一度は訪れた方がいい場所かもしれません。当時の知識人たちがどんな世界を夢見ていたのか、早速見ていきましょう。
このブログで紹介する美術館
軽井沢ルヴァン美術館
・開館:1997年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市、観光協会HPより転載)
・場所
ル ヴァン美術館 – Google マップ
1921年創設の校舎を再現して開館、文化学院の理念が生き続ける場所
・1921年に東京駿河台に西村伊作氏が創立・設計した文化学院の建物をほぼ再現し開館(英国のコテージ風に設計された楽しい建築と庭園は、当時話題となったそうです)。美術館を自然で独自な人格を育み、芸術的な薫りのある人間を形成する教育を目指す文化学院をより多くの人に理解してもらう場にしたいというコンセプトで運営されています。ただ過去を偲ぶだけではなく、その思想、つまり大正の夢と風を受けついでいきながら新しい時代の形に変化してゆく文化学院の姿を常設展示されています。
・旧館長で本美術館創設者(故:西村八知氏)は以下のようにコメントの遺されています。(以下はHPからの抜粋)
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・軽井沢の沓掛(今の中軽井沢)の星野温泉を見下せる丘の上の別荘に、西村伊作は与謝野寛、晶子たちと1週間ほど滞在していました。それは1920年のことです。軽井沢に居た有島武郎の別荘(そこが臨終の家でした)へ馬車で訪ねたり、千ヶ滝の秋草の原に遊んだりしました。やがて彼等の間に、子供達の為に個性と自由の美しい学校を創る夢が生まれたのです。そして1921年に東京駿河台に伊作が設計した、英国のコテージ風の白壁の校舎、緑の芝生の庭で可愛い少女達の遊ぶ風景が実現したのです。それは当時の学校のイメージを変えたものとして話題となりました。
新設されたル・ヴァン美術館は、この大正の芸術家達の創った夢と風の思想を世に送るために出来たものです。この建物や庭園はなるべく創立当時の学校の雰囲気を再現しようとしたものです。自然な教育、質素でも美しい生活、これが伊作や与謝野夫妻そして石井柏亭たちの共通した思想でした。美の夢を持った西村伊作は、あえて素人(しろうと)の自由人であることを貫きました。この学校の教育者たちも職業的教師ではなく教育の素人が集まったのです。
型にはまらない教育、型にはまらない人間がそこに生まれたのです。そこには今の社会で見失いがちな教育の姿がありました。
その姿の魅力にひかれて、この学校の教育に参加した芸術家が多く、文学部では高浜虚子、菊池寛(2代文学部長、初代は与謝野寛)、川端康成、横光利一、小林秀雄、阿部知二そして4代文学部長佐藤春夫などが前期の教授陣にありました。
美術部のほうも石井柏亭を中心に赤城泰舒、中川紀元、山下新太郎、正宗得三郎、有島生馬などが親身になって参加したのです。
またその中期には今泉篤男を中心に硲伊之助、脇田和、山口薫、村井正誠、佐藤忠良、それに不定期の特別講師に棟方志功、猪熊弦一郎などが見えたものでした。
さて、文化学院のあり方ですが、それはただ美しき夢だけではなく、世間の風潮を批判し間違ったものに従わないという伝統であります。思想の貞操とでもいうものです。かつての戦時中の時局の思想に迎合しなかった唯一の学校でもありました。しかしこの文化学院は社会に対して叛逆するという気持ちでやっているわけではなく、ごく自然に本当のことをやっているだけなのです。ごく自然に、これが文化学院のあり方です。このル・ヴァン美術館の庭も、ごく自然の野原のようにと、いま庭師にいっています。良く作られた立派な庭園でなく野草のはえた野原でありたいのです。
今の社会の手のこんだ作られた教育になにか歪みを感じるこの頃、ごく自然な人間というのがどんなに貴重かと私は思っているのであります。
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…いかがでしょう。何だか身につまされるような談話ですね。「『ごく自然な人間』を育てるという」という言葉が印象的でした。ちなみに本美術館、遠方からの来訪者用に宿泊施設をお持ちのようです。(参考:https://www.levent.or.jp/aboutus.php?catid=58&blogid=8)
こういうところも教育理念が根付いている美術館だということを感じますね。
西村伊作とは
・明治17(1884)年、奈良県生まれ(和歌山県育ち)の教育家。明治24(1891)年、濃尾大地震で両親を失い、母方の吉野の大山林地主:西村家に相続人として引き取られる。叔父:大石誠之助の影響で平民社の活動に参加、明治45(1912)年、大逆事件との関連で約1ケ月拘留される。
和歌山県新宮で山林業を営んでいた時、そこを訪れる文化人と親しく交際、大正10(1921)年、長女が高等女学校へ進学する時、わが子のために自由で芸術的な雰囲気にみちた理想の学校を創ることを決意。与謝野鉄幹・晶子夫妻、石井柏亭、河崎なつ等の協力により東京・駿河台に日本初の男女共学制学校、文化学院を創立、校長に就任。昭和16(1941)年、長女:石田アヤに校長を譲り、校主となる。学院には当時の一流の学者、芸術家を教師として招き、卒業生からは、三宅艶子、飯沢匡、青地晨など多数の文化人を輩出。
戦時下の昭和18(1943)年、不敬罪で検挙、学院も強制閉鎖されるも昭和21(1946)年に再開した。著書に「教育の理想」「楽しき住家」「我子の教育」「生活を芸術として」「我に益あり―西村伊作自伝」など多数。平成10(1998)年、遺族が西村記念館を新宮市に寄贈。
→いかがでしょう。西村さん、長女が高等女学校へ進学する時に行かせたい学校がなかったのでしょうね;
それで「わが子のために自由で芸術的な雰囲気にみちた理想の学校を創ることを決意」し、本当に当時の文化人たちを巻き込んで創ってしまうその熱意と行動力、父親精神(?)に脱帽したマウスです。(普通の人だったら今ある選択肢の中からしか選ぼうとする思考回路しか出てこないものですが…こんな人が0から1をつくるのでしょうね。)
ただ今でも多少そのような風潮が残っているきらいがありますが、当日はこのように国の教育方針とずれたことを主張している人はことごとく取り締まりを受けるような時代だったでしょうから、大変な人生であったことが容易に想像できます。
主なコレクション
西村 伊作
与謝野 晶子
石井 柏亭
有島 生馬
中川 紀元
山下 新太郎
佐藤 春夫
…なんか最後の鯛のやつ…かわいいですね。最後にこのような日本の文化・学術方面に多大な貢献をされた文化学院の年表を記して終わりたいと思います。
(参考)文化学院 年表
・1920年(大正9年)- 4月、西村伊作、東京神田駿河台に土地を求める。8月、軽井沢の星野温泉に与謝野寛・晶子夫妻、西村伊作、河崎なつ、石井柏亭等、滞在。新教育の学校を創る話が出る。10月、この頃より、学校設立の話、具体化する。
・1921年(大正10年) – 西村伊作により各種学校として開校。創立には、先述の芸術家たちが携わった。学校令に縛られない自由な教育を目指し、あえて各種学校としたという。また、4年制の中学部(旧制中学校に相当)は日本初の男女共学を実施した。
・1923年(大正12年) – 木造4階建て校舎増築。しかし、落成直後に関東大震災に遭い焼失。残された半地下室の煉瓦とコンクリートの基礎の上に再び木造2階建て校舎を建築し、授業を継続。
・1925年(大正14年) – 本科と美術科による大学部(男女共学・旧制専門学校に相当)設置。また、「賀頌」(与謝野晶子・作詞、山田耕筰・作曲)を式歌とする。
・1930年(昭和 5年) – 本科を文学部、美術科を美術部と改称。文学部長に菊池寛、美術部長に石井柏亭、女学部長に与謝野晶子が就任。
・1931年(昭和 6年) – 大学部を第一回生として卒業した、伊作の長女西村アヤが、文化学院の教壇に立ち、高等課程の英語科創設を手がけた。
・1936年(昭和11年) – アーチの校舎完成。
・1937年(昭和12年) – 旧館校舎完成。軽井沢では夏季講習がはじまり、この地域で夏を過ごす川端康成、谷川徹三、岸田國士らによって講演が行われる。
・1943年(昭和18年) – 文化学院強制閉鎖。軍部は「自由思想は戦時体制に合わない」として、校長西村伊作を拘禁し、学校を強制的に閉鎖する。校舎は軍部が接収し、連合軍捕虜収容所となる。
・1945年(昭和20年) – 校舎返還。西村伊作は未決のまま、解放される。
・1946年(昭和21年) – 文化学院再開。美術科、日曜美術科、英語科(のちの高等課程の前身)を創設。無宗教の修養講座「文化教会」を立ち上げる。
・1949年(昭和24年) – デザイン科設立(主任は伊作の次女の板倉ユリ)。
・1963年(昭和38年) – 創立者の西村伊作死去。校長に石田アヤが就任、理事長には西村久二が就任。
・1966年(昭和41年) – 5階建ての新校舎完成。アートアンドクラフトセンター設立。
・1967年(昭和42年) – 建築科設立(西村久二が科長兼任)。山梨県清里に文化学院清里寮完成。
・1968年(昭和43年) – 高等部が英語科と美術科の2科となる。
・1972年(昭和47年) – 専修学校の認可。文科・美術科は専門課程に、高等部の英語科・美術科は高等課程になる。
・1982年(昭和57年) – 埼玉県庄和町に庄和町グランドとして学生や教師、卒業生たちのレクリエーションの場となっていた土地に陶磁科を新設する。
・1985年(昭和60年) – 庄和町グランドの地に文化学院芸術専門学校を開校。専門課程美術科および、高等課程に相当する芸術科を設立。戸川エマが死去し、文学科科長に立花利根が就任。
・1987年(昭和62年) – 軽井沢に文化学院学生寮を設立。
・1988年(昭和63年) – 石田アヤ校長が急逝。後任の校長に西村八知が就任。
・1997年(平成 9年) – 軽井沢に「ルヴァン美術館」を開館。建物は創立当時の文化学院の校舎を再現した。
・2004年(平成16年) – 高等課程にデジタルデザイン科を新設。科長に伊作の孫の坂倉竹之助。
・2008年(平成20年) – 14階建ての新校舎完成。日本BS放送本社屋との共同使用。
・2009年(平成21年) – 専門課程(2年制)を放送・映画学科(放送コース、映画コース)、総合芸術学科(音楽・ダンスコース、演劇・声優コース、総合デザインコース、美術・クラフトコース、文芸コース)の2学科7コースとし、高等課程(3年制)を総合芸術科(演劇・音楽・ダンスコース、美術コース、文芸コース)の1学科3コースに再編。校長に戸田一雄、理事に与謝野馨が就任。
・2010年(平成23年) – 理事の与謝野馨が院長に就任。
・2011年(平成24年) – 理事長に上村武志が就任。
・2012年(平成24年) – 校長に星幸典が就任。専門課程の放送・映画学科(放送コース、映画コース)の募集を停止。
・2013年(平成25年) – 専門課程を総合芸術学科(声優・演劇コース、美術コース、文芸コース)の1学科3コースに統合。高等課程は総合芸術科(アクターズコース、美術コース、文芸コース)を維持。
・2014年(平成26年) – 高等課程の募集を停止。お茶の水キャンパス(千代田区神田駿河台2-5)から両国キャンパス(墨田区両国2丁目18-5)へ校舎移転。理事長に相川英三、校長に佐竹俊夫が就任。
・2018年(平成30年) – 学校法人了徳寺学園と統合し、平成29年度をもって文化学院閉校。
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