こんにちは、マウスです。
最近、私の子(4歳)がソフトクリームのコーンを食べるのにはまっていて、ソフトクリームを購入するとメインのソフトを全部くれ、残ったコーンだけバリバリと食べています。
お財布的にもカロリー的にも嬉しいのか嬉しくないのか分からない状況ですが、先日ついに「『きのこの山』の『きのこ』だけを食べて。」を言ってきました。なかなかハードルが上がっています。古代の人もこんな風に私たち現代人とは違った感覚で過ごしていたかもしれません。
明治きのこの山小袋14g×240個
さて、1/12のブログでは洞窟壁画を中心にアートの起源について人口密度を根拠にそのさわりを記載しましたが、今回はさらにつっこんで、この洞窟壁画からなぜ人は絵を描くのかという根源的なところを読み解いてみたいと考えています。
そして、今回は中編ですが、最後の後編ではインターネット普及以降の急激な情報通信の発達によって、人々の表現活動にどのような変化が生まれてきているのかについても触れていきたいと思います。ではまずはじめに…
―古代の人はなぜ洞窟に絵を描いたのか。どのような意図を持っていたのか―
これを明確に知る術は現代ではありませんが、私たちが当時の気候・環境や出土品などをつぶさに研究することでいくらかは明らかにすることは可能です。
ここで、少し本編に入る前に振り返りの意味も込めて、現在もっとも古いアート作品だと言われている2つの作品を見ておきましょう。
〇プロンボス洞[南アフリカ] オーカー石(7万5千年前)
〇ショーヴェ洞窟[フランス南部] 壁画(3万6千年前)
※以上、ナショナルジオグラフィックより転載
平面的な表現としては諸説ありますが、このいずれかを起源とすることが多いようです。
今回2つの作品を載せた理由は、上のオーカー石は単なる無意味な模様の重なりであって、真の意味で絵画表現というものは下のショーヴェ洞窟壁画からだという説もあるからです。
(「表現」の定義1つにより4万年もの開きがあるのが、またロマンを感じさせてくれますね)
仮に下の洞窟壁画を起源とした場合、一般的にもっとも有名な説は、動物を確実に獲るためのの呪術の儀式をしていたというものです。
この説が有力な理由は、古代の壁画の題材のほとんどが動物であることによります。
つまりヒトを上手く描く技量があったにも関わらず、あえてヒトではなく動物を描いていたということです。そしてこれらの動物は顔はあまり鮮明に描かれておらず、どちらかというと体の輪郭に集中した描かれ方をしていることに加え、壁画表面が槍などで傷つけられているものもあることから何らかの狩猟的な意味合いがあるのではないかと考えられてきました。
(ちなみに、よく日本の古代遺跡にみられるようなお墓としての意味合いはありません。これらの洞窟壁画周辺は丹念に遺跡調査がされていますが、古代の人の遺骨などの痕跡はほとんど残っていないのです。)
では、本当に呪術の儀式の意味合いしかなかったのでしょうか?
個人的には呪術の儀式のようなものはもう少し後の時代に現れるより文明的なもので、純粋に壁画に絵を描いた意味は違うところにあるのではないかと考えています。
だって呪術の儀式なら少ない人数でしか集まることのできない洞窟ではなく、より広いところに描きたいと思うはずで、個人的にはうす暗い洞窟の中で描いた動物の絵を呪術的なものに紐づけるのはいかにも現代人が後付けした考えのような気がしてなりません。
そこで、今回は皆さんの想像力をかきたてるため少し違った角度からの説を唱えてみたいと考えています。
まずその手掛かりとして、古代の洞窟壁画には、エジプトなど他の壁画とは異なる重要でかつ特徴的なものが1つあります。
…それは、洞窟表面の凹凸を生かして輪郭を描いているということです。
一方でエジプトなどの壁画は表面を研磨し、平らにならして造形的に美しくしているものが多いようです。また、持ち運ぶことも想定し、重さなども考慮して制作されているものもあります。
※浪漫堂ショップより転載「ファラオ アメンホテプ4世と王妃 ネフェルティティとその娘 古代エジプト文明 壁画レプリカ」
…これが何を意味しているのか。
つまり古代の洞窟壁画はそこまで大勢の人に見られることを想定していなかった…もっと言うと仲間うちでの象徴的な意味合い(パッと見て分かればいいという面)が強かったということです。
エジプトの壁画ではそれが造形的に美しくされているということは、第三者的な大勢の人に見られることを意識して作られているということが分かります。
これは、エジプトなどの壁画はそれが権力維持や商業的な要素、規則、契約など、現代に通ずる統治機構的な役割としてある意味で「利活用」されていたということを示します。つまりアートは権力者の手の内にあったということです。
そしてこれはエジプト壁画に限らず、現代に生きる私たちも同様のことが言えます。
例えば、現在絵画を学んでいる多くの学生が白い平らなキャンバスに一から絵を描くということを教え込まれます。この画面の凹凸の有無というのは、ある意味で多くの人に見られることを意識して制作しているのか否かを示す重要な証拠にもなるのです。(もちろんコンセプト的な意味でくすんだゴツゴツした媒体に絵を描く人もいるかもしれませんが)
ところで、今と違って10万年頃前から2万年頃までにかけて地球は寒冷化した時期があるということが海洋研究で分かっています。今のように情報通信が発達している時代ではないですから、狩猟の際は仲間同士で協力する必要があったでしょう。
古代の洞窟壁画が敢えて人目につかない洞窟に描かれていたということからも、もしかしたら狩猟のなわばりを仲間うちで共有する象徴的な記号として、秘密基地のような洞窟の中に動物を描いたのかもしれません。
私はサッカー観戦が好きで、よく試合を観るのですが、強いチームほどサポーターの皆さんが同じ色の同じマークの付いたユニフォームを着て応援しています。あれと同じで象徴的なものを身に着けることで一体感や仲間意識を醸成しようとしたと考えることもできます。
※2018FIFAワールドカップロシア パブリックビューイング東京「フランス対クロアチア」より転載
そしてアートはもとより日常生活における風習など、どのようなものでもそうですが、このような仲間うちでの象徴的な記号として利活用されるに至った洞窟壁画を描いた最初の1人がいたはずです。
ーその人は一体どのような気持ちで洞窟に絵を描いたのでしょうかー
ここからは本当にもう空想の世界でしかないのですが、少なくとも彼/彼女は、水面などに映った自分を見てヒトと動物が違う存在であることは感じ取っていたはずです。
そして、その自分とは違う存在である動物の命を奪うことで自分が生き長らえさせてもらっているという、いわば自然への畏怖や敬虔な気持ち、何か大きなものに包まれているという感覚ーこのような大自然をつぶさに感じとる目や耳はもしかしたら現代人よりもはるかに長けていたかもしれません。
実は、チンパンジーやゴリラなど、遺伝子的にもヒトに近似した動物は存在しますが、目の前に「ない」ものを想像し、それを表現できるのは人間だけだという調査結果があります。
チンパンジーにダルマの絵を見せても目を描こうとはしませんが、人間の赤ちゃんはある程度の年齢になると目が「ない」ことに気づき、それを描けるようになるのです。これは二足歩行という他の動物にはない類まれな身体的な特徴をもつことになる人類が、両手を自由に使えるようになった副産物として人類史上もっとも偉大な能力を得たと言うこともできます。
また、このような事例もあります。
生まれながらに目の見えなかった人が、医学の力で目が見えるようになったとき、そのときに世界はどのように見えるかというと、じつはピントの合わない色彩の渦のような光景に包まれるというのです。例えば、クリーム色のぼんたりした塊だと思って手を触れるとテーブルであったというような風です。そのようにだんだんと触覚や聴覚などから入ってきた情報を重ね合わせることで、色彩の渦のような光景に徐々に像が結び付けられ、「見える」ようになっていくということです。
このことからも、見るというのは、視覚(目)だけでなく、その他の感覚や脳の働きにも依存し、先ほど述べたような「ない」ものをも目の前にあるかのように描けるようになるのです。
つまり、このように「ない」ものを想像することができる能力が他の動物と比べ人間のもっとも特徴的なものであり、現代まで子孫を反映させてきた要因だと言っても過言ではないのです。
そしてそれは恐らく、洞窟という暗闇に包まれ、動物の絵を描くときも、洞窟の外に広がる大自然とそこに立つ自分を想像して描くという能力にもつながります。
当時は恐らく、特定の言語は存在しなかったはずですが、彼/彼女らは常に自然の音を聞いていました。赤ちゃんの発達過程でもそうですが、まず耳から入る音を頭の中で整理し、その音真似をする過程、完全に音の意味を理解するまでの間に、記号や象徴的ともいえる絵を描く赤ちゃんが殆どです。これは耳から入った音を、自分の手を使い、視覚として認識できる形で表現することで、耳だけでなく目を使って自分と他者との存在の違いを認識しようとする行動と言えます。
…自分は何者か、どこから来て、どこへ行くのか…
そんな自身のアイデンティティとも言える手掛かりを少しでも掴みたくて、自分とは違う四足歩行の動物たちをじっくり眺めるため、彼/彼女は洞窟の中に絵を描き始めたのではないかと私なんかは考えています。
皆さんはどう思われますか?
※パプアニューギニア政府Twitterから転載
いかがだったでしょうか。
少し定説とは外れた見解も書きましたが、今日はここまで。あとは皆さんの空想に任せたいと思います。古代のアートはいろんなことを考えることができるのがまた魅力かもしれません。
次回後編では、前編でも少し触れましたが、インターネット出現以降のアートについて、つまりネットという集団間のデジタルな接触がより盛んになることで、どのような斬新な発想や「集合脳」が発生しているのかについて述べていきたいと思います。
トンガで1000年に1度の大噴火が起きました。
同じ島国に住む者として他人事ではないような気がして大変心配しています。
と、同時にまだまだ地球上には解明できない多くの動きが眠っていることをまざまざと見せつけられました。
これからもそんな不可思議な事象にもアートの目をもって皆さんと臨みたいと考えていますので、どうぞよろしくお願い致します。
(マウス)
コメント