こんにちは。突然ですが皆さんお酒は好きでしょうか。
…お酒の味は好きですが、全然飲めないマウスです。でも案外お酒のボトルや製造工程の見学なんかは好きだったりします。なんかお酒ってロマンがありますよね(笑)
今日はそんなお酒に所縁のある京都の美術館です。時は19世紀後半の明治維新から約20年後、2人の大実業家が大阪に生をうけたことが始まりです。1人は証券業や山林経営、土地開発、ゴルフ場設計など様々な分野で経営の手腕を発揮した大実業家で、竹鶴政孝を支援して後のニッカウヰスキー創立にも参画します。そしてもう1人は家業の製壜業山爲硝子(やまためがらす)製造所を若くして継承、後にビール製造事業を展開していきます。
そんなぜんぜん分野が違うようにみえる2人の共通点は、無名の陶工たちの生き生きとした器や生活に根ざした器、後の民藝運動運動につながる考え方を強く支持したという点です。(民藝運動…少し前に静岡市立芹沢銈介美術館や河井寛次郎記念館でふれましたね)
どんな歴史が待っているのか、この美術館を訪れるとわかるのではないかと思います。それでは早速みていきましょう。
このブログで紹介する美術館
アサヒビール大山崎山荘美術館
・開館:1996年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、府観光協会HPより転載)
・場所
アサヒビール大山崎山荘美術館 – Google マップ
→ちょうど大阪市と京都市の中間くらいにありますね。
関西の2人の大実業家をつないだ1杯のウヰスキー、民藝運動の舞台にたたずむ1つの美術館
・関西の実業家・故加賀正太郎氏が大正から昭和初期にかけ建設した「大山崎山荘」を創建当時の姿に修復、安藤忠雄氏設計の新棟「地中の宝石箱」などを加え、京都府大山崎町、天王山の南麓に1996年に開館。。約5500坪の庭園のなか、英国風山荘である本館と安藤忠雄設計の「地中の宝石箱」、「夢の箱」、その他の建物から構成されています。
(正太郎氏の没後、加賀家の手を離れた大山崎山荘は、平成のはじめには傷みが激しく荒廃寸前となっていたものを、周辺が開発の波にさらされるなか、貴重な建築物と周囲の自然の保護保存を求める声に応えた形です。)
加賀正太郎氏について
・加賀氏は、ニッカウヰスキーの設立にも参画、アサヒビールの初代社長であった故山本爲三郎と同じ財界人として深い親交がありました。美術館本館である「大山崎山荘」は、もとは関西の実業家・加賀正太郎(1888-1954)の別荘として、大正から昭和にかけ建設。加賀正太郎は、証券業をはじめ多方面で活躍した実業家である一方、大山崎山荘で蘭の栽培を手がけ、植物図譜《蘭花譜(らんかふ)》を刊行するなど、趣味人としても大きな業績を遺します。加賀は、ニッカウヰスキーの創業にも参画、晩年には深い親交があった朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長・山本爲三郎氏へ託しました。この縁が、現在の美術館へと受け継がれました。
1954年に加賀正太郎が亡くなり、ついで加賀夫人がこの世を去ると、1967年に大山崎山荘は加賀家の手を離れることに。幾度かの転売ののち、建物の老朽化が進んだこともあり、1989年には山荘をとり壊し、大規模マンションを建設する計画が浮上。しかし、地元有志の方を中心に保存運動が展開され、京都府や大山崎町から要請を受けたアサヒビール株式会社が、行政と連携をとりながら、山荘を復元し美術館として公開することに。
建築について
・建築家・安藤忠雄が手がけた現代建築の三つを擁し、2004年には、「大山崎山荘」の6つの建物、霽景楼(せいけいろう)[現本館]、彩月庵(さいげつあん)[茶室]、橡ノ木(とちのき)茶屋、栖霞楼(せいかろう)[物見塔]、旧車庫[現レストハウス]、琅玕洞(ろうかんどう)[庭園入口トンネル]が国の有形文化財として登録。開館9年を迎えた2005年には来館者が100万人を越え、特色あるコレクションと建築、豊かな自然をともに楽しむことのできる美術館です。
美術館本館は、加賀正太郎が別荘として設計し、「大山崎山荘」と名づけます。加賀は、若き日に欧州へ遊学し、イギリスのウィンザー城を訪れた際に眺めたテムズ川の流れの記憶をもとに、木津、宇治、桂の三川が合流する大山崎に土地を求め、1912年から山荘建設に着手したそうです。
大山崎山荘を美術館として再生するにあたり、建築家・安藤忠雄設計による新棟、地中館が増設。地中館は、安藤により「地中の宝石箱」と名づけられます。地中館は、周囲の景観との調和をはかるため半地下構造で設計され、円柱形の展示空間上部には植栽がほどこされています。
山本爲三郎氏について
・アサヒビール大山崎山荘美術館の所蔵品の中核を成すのが、美術館開設に際して寄贈された山本爲三郎(ためさぶろう)コレクションです。
朝日麦酒株式会社(現アサヒビール株式会社)初代社長を務めた山本爲三郎(1893-1966)は、大阪の船場に生まれ、17歳のときに父親の興した製壜業山爲硝子(やまためがらす)製造所を若くして継承。山本氏は、さまざまな課題にあたっては先達の意見に耳を傾けるとともに、事業の整備・拡充に努めながら、やがて生涯の仕事となるビール製造の事業に参画します。また一方で芸術文化活動への支援にも熱心でした。特に熱意をもってとり組んだのが、柳宗悦が提唱した民藝運動への支援。柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司らが急速に進む近代化のうねりのなかで、彼らは手仕事の復権や美の生活化を訴えたことに対して大いに賛同します。
また、山本氏は大阪の将来のため国際的に誇れるホテルをとの夢を抱き、第二次世界大戦後に進駐軍の接収下にあった新大阪ホテルを継承、大阪ロイヤル・ホテル(現在のリーガロイヤルホテル大阪)の設立に心血を注ぎ、1965年には、ホテル内のメイン・バーとして「リーチ・バー」を開設。リーチ・バーは、山本がバーナード・リーチや濱田庄司と相談しながら骨子を固めたもので、「用の美」を全体で味わうことのできるバーとして、現在でも運営されています。
※画像はリーガロイヤルホテルHPより転載
アサヒビール大山崎山荘美術館のHPでは、この山本爲三郎が集めた河井、濱田、リーチ、富本憲吉の陶磁器と、柳宗悦らが招来した東西の古作工芸の佳品の数々は、山本と、彼が第一級と認めた名匠たちとの生涯変わらぬ厚い交誼の証しであり、民藝運動への支援の記念碑ともいえる存在だと述べられています。
三國荘(みくにそう)とは
・1928年、柳宗悦らは山本爲三郎をはじめとする賛同者の支援を得て、御大礼記念国産振興東京博覧会(東京・上野公園)で展示館「民藝館」を披露し、この場で民藝運動の理念を初めて具現化、生活に即した美を世に問いました。博覧会終了後、民藝館は、この建物が失われるのを惜しんだ山本氏は、その建物や什器を私費で買い上げ、大阪の自邸に移設。大阪・三国の山本邸内に移築された民藝館は、その地名から新たに「三國荘(みくにそう)」と命名されます。三國荘では、柳が各地から蒐集した品をはじめ、志を同じくしたバーナード・リーチや富本憲吉らの陶磁器、さらに柳の影響下にうまれた工房・上加茂民藝協団の黒田辰秋らによる家具などが新しい様式を目ざした生活を彩り、三國荘は初期民藝運動の重要な拠点となりました。
主なコレクションと館内・庭園の様子
・以下のURLより、コレクション約1000件の作品から、選りすぐった約60点をご紹介されているのでぜひ覗いてみてください。また、館内や庭園も意匠がほどこされていますのでぜひ。
〇アサヒビール大山崎山荘美術館コレクション:https://www.asahibeer-oyamazaki.com/collection/
〇アサヒビール大山崎山荘美術館内 :https://www.asahibeer-oyamazaki.com/design/#view
〇アサヒビール大山崎山荘美術館 庭園:https://www.asahibeer-oyamazaki.com/garden/
…マウス個人的には途中出てきた用の美を堪能できる「リーチ・バー」が気になっていますが、こちら今では外資のリーガロイヤルホテル(母体はフォートレス・インベストメント・グループ)の傘下に入っているということ、なんだか色々と考えさせられるなと感じた次第です。
そんなこんなで今日も勉強になりました。皆さんも民藝運動の大切な歴史をのぞきにいってみてください。
(付録)ニッカウヰスキーとは
・世界5大ウィスキー「ジャパニーズウィスキー」の一つ、アサヒビールが販売を行う高品質なウィスキーのこと。代表的な銘柄は「ブラックニッカ」「竹鶴」「余市」「宮城峡」など。
1934年、サントリーの前身「寿屋」でウィスキーの製造に従事していた竹鶴政孝氏が、資本を集めて北海道余市で創業したのが始まり(創業時の社名は大日本果汁株式会社)。創業当初は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュース、リンゴワイン、リンゴゼリー、リンゴケチャップなどを製造販売していたものの、1940年、リンゴジュースの商品名であった「日果」をカタカナにして、「ニッカウヰスキー」と名付け販売を開始。終戦後、他社からは低質の3級ウィスキーが相次いで発売される中、品質にこだわって低価格商品を投入せずに経営が苦しくなった時期には朝日麦酒から派遣された弥谷醇平氏のアドバイスをきっかけに、売上げを増やし品質を保持。その後、ニッカウヰスキーの販売額は業界3位から2位に浮上。2015年にニッカウヰスキーは、世界中の生産者の中から優れた酒造メーカー1社にのみ贈られる”ディスティラー・オブ・ザ・イヤー”を受賞し、世界レベルで認められるジャパニーズウィスキーとして、その名を轟かせています。
(ニッカウヰスキー「ヰ」の由来)
・ニッカウヰスキーの社名にも使われている、歴史的仮名遣い「ヰ」が使われる理由は以下の2つに由来しています。1つめは、ウィスキーは「水が命」ということで井戸の「井」を使って登記しようとしたところ、当時は漢字とカタカナを混在させての社名登記ができず、似たカタカナの「ヰ」を代用したということ。2つめは、Whiskyの「wi」の発音に近いからということのようです。
(銘柄紹介)
「ブラックニッカ」
・ニッカウヰスキーのマスコットキャラとしても有名な、ヒゲのおじさん(KING of BLENDERS)がラベルに描かれた「ブラックニッカ」。
1956年に誕生し、「特級をもしのぐ1級」というキャッチコピーが有名。クセがなく飲みやすい味わいが特徴。値段がリーズナブルなところも魅力で、ニッカウヰスキーの中で最も人気がある銘柄。
「竹鶴」
・ニッカウヰスキーの創業者であり、「日本ウィスキーの父」と呼ばれる竹鶴政孝氏の名前を由来にした「竹鶴」。2000年に「竹鶴12年ピュアモルト」として発売。「飲みやすいウィスキー」というコンセプトで開発が進められ、誕生したウィスキー。ニッカウヰスキーの顏ともいえる存在で、国際的なウィスキー評論会で相次いで高評価を獲得。「日本人に本物のウィスキーを飲んでもらいたい」という竹鶴氏の思いが詰まった名作との事。
「余市」
・ニッカウヰスキーの中でも高級ウィスキーの位置づけで、日本を代表するウィスキーとして世界的な評価も高い「余市」。1989年に発売し、余市蒸溜所の伝統的な「石炭直火蒸溜」で作られた、豊かな香りが特徴のウイスキー。シングルモルト余市には熟成20年、15年、12年、10年が存在しますが、原酒不足も影響し現在はノンエイジ(ラベルに年数表記なし)のみのラインナップに。シングルモルト余市20年などは、買取市場でもプレミア価格で取引されています。
「宮城峡」
・1989年、宮城峡蒸溜所の操業20周年を記念して誕生した「宮城峡」。2003年には、シングルモルト宮城峡は熟成15年、12年、10年の3種類が発売。余市蒸溜所で生み出される余市と並び、ニッカウヰスキーの中でも高級ブランデーの位置づけで、日本を代表するウィスキーとして世界的な評価も得ています。余市と同様に深刻な原酒不足が影響し、現在はノンエイジのみのラインナップです。
※以上、ブログサイト「FUKU CHAN」参考:https://www.fuku-chan.info/column/liquor/5090/
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