文化勲章を辞退し無一物の道を探求し続けた主席画家 岐阜:熊谷守一つけち記念館

アートな場所

こんにちは。今日から岐阜県です。
…あれ、と思われた方、そうですね。東京都含め4都県くらいすっ飛ばして中部地方に移りました。その4都県、別にご紹介したくないわけではなく、いわゆる「美術館密集エリア」です。このあたりをご紹介していたらいつまで経っても他県の美術館がご紹介できないため後回しにしました。(本ブログ地方館を応援しているという一面もあり)
もちろん最後沖縄県までまわったら必ず帰ってきますので悪しからず。

今日は岐阜県中津川市付知町(「つけちちょう」と読みます)の生まれ、東京美術学校を首席で卒業しながら己の絵画道を貫き、周囲からは仙人と呼ばれ続け、齢70歳を超えてその評価を確立した1人の画家の作品を展示する美術館です。
それでは早速。

このブログで紹介する美術館

熊谷守一つけち記念館

・開館:2015年 ※前身は1976年開館の熊谷守一記念館。収蔵作品を引き継ぐ。(ちなみに「つけち」とは町名をとった名称です)

・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
熊谷守一つけち記念館 – Google マップ
→岐阜県中津川市行ったことがありますか?もしかしたら苗木城跡、付知狭、馬籠宿あたりの観光で行かれた方もいらっしゃるかもしれませんね。まだの方はぜひこれら観光名所と一緒に本美術館もご来館ください。
※写真は苗木城跡(中津川市HPより転載)

文化勲章を辞退し無一物の道を探求し続けた主席画家

・岐阜県中津川市付知町にある美術館。2015年9月、熊谷守一の生まれ故郷の恵那郡付知村(現:中津川市付知町)に、熊谷守一作品の収集家である小南佐年さん(現:館長)が私財を投じて設立。

熊谷守一氏とは

・別館ですが、「熊谷守一美術館だより」という冊子で、熊谷守一の二女が来館者からいただいた質問に答えるという連載がありました。本ブログでもまずは熊谷守一氏の人となりをご紹介するために転載させていただきます。
熊谷守一美術館だより
・ちなみにこんな風貌の方。
※写真は熊谷守一美術館掲載画像
→まさに「仙人」という感じですね。でも上の美術館だよりに記載されているように、ご本人はこの呼び名を気に入っていなかったよう。二女さんも「仙人なんかじゃありませんでした。ふつうです。金銭欲や所有欲のないことは並外れていて、人を押しのけるようなところのない人でしたけど。白いシャツは嫌いだし、カルサンを履いて、床屋も嫌い。そういう父が気に入ってしていた格好(風貌)を揶揄されたのでしょうね」と述べられています。

・マウス的にはには若かりし頃、支援者から「フランスへ一緒に行かないか」と勧めてくれた時、「好きな人がいるから行かない」と言って断ったというエピソードが何とも熊谷守一さんらしいなと思いました。しかもそれが後の奥さんだとは。。

熊谷守一氏 略歴

記念館のHPに熊谷守一氏の略歴が載っていましたので掲載しておきます。
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・1880年(明治13年)、岐阜県恵那郡付知村(現・中津川市付知町)に事業家・熊谷孫六郎(1832-1902)の三男、第七子として生まれる。(お父さんは機械紡績を営む事業家で、岐阜県会議員・初代岐阜市長と歴任、1892年には衆議院議員に選出された名家だったようですね)
・1883年(明治16年)、祖母や母と別れ、父のいる岐阜市内の邸宅に移される。父の経営する熊谷製糸工場に隣接する広大な家に、二人の妾と大勢の異母兄弟と共に暮らす。
・1892年(明治25年)、父・孫六郎が衆議院議員に当選。この頃より水彩画を描くようになる。
・1897年(明治30年)、上京。絵描きとなりたい気持ちが膨らみ、上京してきた父に「絵をやりたい」と切り出す。跡取りにと考えていた父は反対するが「もし慶応義塾に一学期真面目に通ったら、お前の好きなことをしてもいい」という言葉を受け、慶応義塾中等部普通科2年3学期に編入し、1学期だけ通い、慶応義塾を退学。
・1900年(明治33年)、共立美術学館の向かいにあった東京帝国大学工科大学にて、知人の紹介で石膏像デッサンを独学。同年、東京美術学校西洋学科選科に入学。
・1902年(明治35年)、旅行中に父が脳卒中で急死していたことを知らされるとともに、父が残した莫大な借金を背負う。これを機に、下谷区入谷(現・台東区入谷)の借家で友人5人と共同生活を始める。
・1904年(明治37年)、東京美術学校を首席卒業。その後も3年間は研究科に残る。
・1909年(明治42年)、第3回文展で《蝋燭(ローソク)》が褒状を受ける。本作品は、当時帝大生で後に広島県知事などを歴任する湯澤三千男が購入。
・1910年(明治43年)、実母危篤の知らせに帰省する。母の死後も付知にとどまり、以後約5年間を同地で過ごす。滞在中に制作した作品は《父の像》《母の像》《甥》《馬》の4点のみ。
・1915年(大正4年)、再上京。この頃より、画家仲間の斎藤豊作から毎月金銭支援を継続的に受ける。
・1922年(大正11年)、紀州南部町の地主・大江為次郎氏の次女・秀子(24歳)と結婚。
・1923年(大正12年)、長男・黄、誕生。9月、関東大震災に遭う。
・1925年(大正14年)、次男・陽、誕生。
・1926年(大正15年)、長女・萬、誕生。貯金が底をつき、熊谷家の生活は困窮を極める。
・1928年(昭和3年)、次男・陽が肺炎で急死。死の床に横たわる陽の顔を描く。
・1929年(昭和4年)、次女・榧、誕生。二科技塾が開設され、安井曾太郎、有島生馬、石井柏亭らとともに週1回、約10年間指導。
・1931年(昭和6年)、三女・茜が誕生。
・1932年(昭和7年)、三女・茜が病死。暮れに、豊島区長崎町(現・豊島区千早)に自宅を新築して転居、以後、生涯をこの家で過ごす。
・1933年(昭和8年)、《蝋燭》の所有者である広島県知事・湯澤三千男に、有島生馬、小杉放庵らとともに、広島へ招待され写生を行う。
・1938年(昭和13年)、名古屋展で後に熊谷守一の重要なコレクターとなる木村定三に出会い、大阪での日本画展も成功し、ようやく画壇で注目されるようになる。
・1944年(昭和19年)、二科会、戦時のため解散。
・1944年(昭和20年)、長女・萬、肺結核で寝込む。戦争では空襲に見舞われるが自宅は焼け残る。
・1947年(昭和22年) 、長女・萬、肺結核のため死去。
・1956年(昭和31年)、 軽い脳卒中の発作を起こし、以後ほとんど自宅から外出しなくなる。
・1967年(昭和42年)、文化勲章内示を辞退する。
・1971年(昭和46年)、日本経済新聞の『私の履歴書』において29回連載が掲載。これをまとめた『へたも絵のうち』が同社より11月に刊行。
・1977年(昭和52年)8月1日、肺炎のため逝去。
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→だいぶ端折りましたが、マウス的に印象的だったのは上でマーカーした守一さんのお父さんとのやり取りですね。お父さん、たぶん厳格な方で「慶應で1学期通ったら気が変わるだろう。(そもそも慶應に受からないかもしれないし)」と踏んでいたのかもしれませんが、守一さん本当に慶應義塾に合格したうえ、1学期を経て退学するとは思ってなかったんじゃないかなと思います。でも約束ですから、、ここまで有言実行されればお父さんも断る理由がなくなってしまいますね…それにしても熊谷守一さん、信念を曲げない姿勢がこんなところにも垣間見れます。しかもその後に通った東京美術学校も主席卒業という…。

私生活でも豪胆で、43歳から子どもが5人生まれています;
しかも悲しいことに次男、三女、長女と3回自分の子に先立たれています。こういう経験ももしかしたら熊谷守一さんの人生観を形づくっていったのかもしれませんね。

熊谷守一氏の人となり(動画)

・Youtubeにも熊谷氏の人となりが分かる動画がありましたので、こちらも掲載しておきます。

熊谷守一氏 代表作

・そんな熊谷守一氏、その画業の集大成、代表作の1つをご紹介して今日は終わりたいと思います。こちらご覧ください。

「牝猫」1959年、油彩、個人蔵

…いかがでしょうか。いかにも気持ちよさそうに居眠りしている猫の表情、雰囲気が(リアルに描いた訳ではないのに)画面から醸し出されていますね。一見、シンプルに見える画面であるにも関わらず、ここまで存在感、空気感を出すことができる熊谷さんの物を見る目と自然物への尊敬の念が表れている逸品だと思います。あらためて地位や名誉、そして金銭的なものとらわれず、無一物という存在する物はすべてが空(くう)という何事にも執着しない我が道を探求された画家の集大成だと感じました。

そんな熊谷守一氏の画業を振り返ることができる熊谷守一つけち記念館、皆さんもぜひご来館下さい。

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