47番目の美術館、アジア地域と沖縄の発展に貢献する国際拠点をめざして 沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー) 前編

沖縄県

こんにちは。北海道から南下してきましたがいよいよ1巡、沖縄県です。(と言ってもこの後、残した東京・京都他数県の館をご紹介していくことになりますが)
元は琉球とその島しょエリアとして日本本島とは異なるオリジナルの文化を形成してきた沖縄県。戦前・戦後を通じて初めての県立美術館が2007年にオープンしました。
※前身の博物館は1966年に設立。

その位置づけは、沖縄の歴史と伝統を見ても単なる「県立」という意味以上に、どちらかというと「国立」として文化遺産を後世に伝え継ぐという意味合いもありそうです。そんな沖縄県を代表する美術館、早速ご紹介しましょう。

このブログで紹介する美術館

沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー)

・開館:2007年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、県・市観光協会HPより転載)

・場所
沖縄県立博物館・美術館(おきみゅー) – Google マップ

アジア地域と沖縄の発展に貢献する国際拠点をめざして

・戦前戦後通じてのはじめての県立美術館。人間性の根幹に深く関わる美術活動によって県民の情操を豊かにすることで、社会の健全な発展を支え、地域においては芸術文化の拠点とすることを目的として建設されたそうです。本美術館は、県民に多様な芸術鑑賞の機会や創造性を高める場を提供すると同時に、芸術文化活動を通じて、アジア地域や沖縄の発展に貢献する国際化の拠点となることを目指されています。

沖縄美術コレクション

・明治時代・廃藩置県以降の沖縄の美術を体系的に収集し、展示。沖縄県は、本土と異なる風土と歴史の中から培われてきたユニークな文化・表現が発達、沖縄県立博物館・美術館ではこれら作品を集中的に収蔵しています。沖縄県立博物館・美術館のHPには沖縄美術の歴史について概略が掲載されていますのでこちらご参照ください。

王朝絵師と日本画

・数百年間続いていた琉球王府の絵師たちは、琉球処分により野に下ります。絵師たちの中に南国の風物を描いた水墨の長嶺宗恭や風俗画を主に描いた比嘉盛清などがいました。しかし王朝絵画の伝統は、徐々に日本近代に飲み込まれて消えていきます。

日本画系の画家は琉球王朝末期に広がりを見せ、昭和の時代まで続きますが、彼等の仕事は後の世代は継承せず、わずか数名が携わるのみとなります 。その後山田真山が東京美術学校にて高村光雲に彫刻、後に日本画を学び帰郷。戦後も活動を持続しました。代表作に聖徳絵画館の「琉球藩設置の図」、糸満市沖縄平和記念堂の観音像があります。真山のあとに続く日本画家として、流麗な挿絵を描いた金城安太郎や静ひつな美人画で知られる柳光観等がいます。

洋画の受容

・沖縄の近代美術受容のはじめに大きな影響力を持ったのは、明治の後期から日本本土より派遣された美術教師たちでした。1901年(明治34年)には、東京美術学校1期生で西洋画科出身、白馬会に属する山本森之助が赴任。在任中に沖縄を題材にした作品を制作し、白馬会に出品しました。山本の作品が最初の沖縄での本格的な洋画の紹介となります。1922年(大正11年)には沖縄出身の比嘉景常が県立第二中学校の美術教師に赴任。1941年(昭和16年)に没するまで、東京美術学校に多くの生徒を送り、沖縄の美術界をリードしていく美術家たちを数多く育てました。

戦前の美術

・1935年(昭和10年)頃より比嘉の教え子であり、戦前戦後を通じて沖縄を代表する画家、名渡山愛順と大嶺政寛が活躍します。両者とも熱烈な郷土愛を抱き、沖縄の原風景をテーマに描き続けました。名渡山は、東京美術学校卒業後は古き良き沖縄=琉球を女性像に託して描き続けます。大嶺は、春陽会を活躍の場とし、一貫して沖縄の本来の姿を風景描写に求めました。二中出身には前二者の外、晩年は沖縄の神事に画題が行き着いた大城皓也や沖縄におけるシュルレアリスムの導入者ともいえる山元恵一がいます。他に安谷屋正義、兼城賢章、古城宏一などがいます。

戦後復興期の美術

・太平洋戦争は沖縄を完全に破壊し尽くしますが、戦後すぐに上記の美術家たちが中心になり、那覇市首里儀保に美術家の共同体「ニシムイ」が誕生します。彼等は米軍人相手の肖像画や、風景画を中心に制作する一方で、夜は芸術上の議論を尽くしました。安谷屋正義は水平線と垂直線の交わる緊張感溢れる白い空間を追求します。春陽会で活躍する彫刻家の玉那覇正吉、中学校美術教諭具志堅以徳、金城安太郎、創元会会員で沖縄の風土を抽出し、伸びやかな空間を現出した安次嶺金正等が、戦後初の美術グループ「五人展」を結成。「五人展」は50年代を通じて活動しました。

前衛と固有性

・60年代を通じて城間喜宏、大浜用光、大嶺實清の三人による前衛グループ「耕」が活躍します。彼等は当時の本土の「具体」や「アンフォルメル」からの影響を大きく受けました。日本復帰の前後には、永山信春、真喜志勉、新垣安雄等が、怒りをぶつけるように、野外での大規模なオブジェによる展覧会が行われました。それらの世界的な傾向を反映した前衛活動に対し、沖縄の固有性を探る流れが出て来きます。普天間敏は石膏版画という手法によって沖縄の風土をくみ上げました。喜友名朝紀は自らの地域の神事を主題に描き続けます。

80年代に入ると、中堅の作家がモダニズムを咀嚼し、力強い作品を発表するようになりました。米軍廃材使用により、物質性と状況を取り込んだ豊平ヨシオ、壮大な闇のような抽象の山城見信、モノクローム絵画の永山信春がいます。

90年代から沖縄の美術シーンが活発になるに伴い、現代美術における若い作家たちの県外での活躍が目立つようになります。絵画では知花均、与那覇太智。立体・インスタレーションでは、粟国久直、真喜志奈美がいました。

移動と表現

・沖縄は人口比率でいけば、全国でもトップの移民県です。戦前戦後を通じて、アメリカ大陸に多くが渡りました。小橋川秀男はアメリカ生まれ、帰米2世である。90歳近くまで、少年のころの沖縄の記憶だけで膨大な作品を残します。高江洲敏子は3世でニュージャージーに住むが、陶芸家としては米国の中でもっとも重要な作家の一人になりました。ゴヤ・フリオは沖縄在住、アルゼン生まれの2世で彫刻家。フジサンケイビエンナーレやロダン大賞展などで入賞。移民ではないが、国外で活躍する作家も増えてきます。比嘉良治はニューヨークを拠点とする写真家、美術家、ノースカロライナには小谷節也が版画を中心に活躍しました。また、幸地学はパリ在住の画家・彫刻家97年度のグラミー賞イメージアーティストとして有名です。ニューヨーク在住の現代美術家、照屋勇賢は、常に社会のシステムに感心があり、洗練されたアイデアと美しいフォルムによって、国際展の常連となります。

未来へ

・明治以来、いくつもの世替わりを経験した沖縄は、そのたび異なる文化と接触し、様々な芸術を生み出してきました。現在どちらかと言えば音楽や芸能などの無形の文化にその特性を見いだしているかのように見られがちですが、かつては漆器工芸、絵画などの美術工芸にもきわめて優れたものを持っていました。最近の沖縄の美術状況を見ると、かつての美術王国が復活する可能性をも秘めています。

楽しく学べる沖縄美術史年表

・沖縄近現代美術史と美術館の作品が解説付きで見られます。
※5カ国語対応(日本語、英語、繁体字、簡体字、韓国語)→https://okimu.jp/education/okinawa_art_history/

コレクション方針

・美術品収集は、美術品の計画的体系的収集を図り、常設展示室等で体系的に展示。沖縄県独自で個性ある美術館にするため、沖縄及び沖縄ゆかりの作家の近現代美術と日本及びアジア諸国の現代美術の中で、平面芸術(絵画、版画、デザイン、写真等)や立体芸術(彫刻、オブジェ、デザイン等)の他に、映像芸術(映画、映像作品等)に重点を置いてコレクションの形成をめざしています。
<佐田 勝>

<南風原 朝光>

〇沖縄県立博物館・美術館 作家紹介ページ:https://okimu.jp/art_museum/artists/

 

…と、私ここまで書きながら本美術館のある事実に気づきました。
この美術館、2007年に開館するまで、前身の沖縄県立博物館含めかなり議論され紆余曲折を経て開館に至っているそうです。当初は「沖縄県立現代美術館」という名称で基本構想が練られ、その後「沖縄県立美術館」として博物館を併設せずに設立するという案もあったそうです。

もしかしたらこの歴史をたどることで、沖縄の歴史、そして博物館と美術館が併設する意味、また逆に美術館だけで独立して運営する意味についてより深く考えることができそうだと感じましたので、本ブログ前編・後編に分けてより詳しく見ていくこととしました。

次回、後編は一方の博物館の歴史、そして「現代美術館」としなかった理由、「美術館のみ」で設立しなかった理由なども触れていけたらと考えております。引き続き、本ブログ「絵本とアートと。」をよろしくお願いします。

(マウス)

コメント