「美術の殿様」が設立、大名家代々の名宝を収蔵・展示・研究 東京:永青文庫

東京都

こんにちは。今日ご紹介する美術館は23年2月にご紹介した熊本県立美術館の姉妹館です。
(正確には代々熊本を務めた藩主の名品を収蔵・展示・研究する施設で、熊本県にとっては切っても切り離せない存在です)

 現在47都道府県の最後として東京に美術館をご紹介していますが、藩主・大名家の名宝が明治以降も散在せずにこうやって一堂に目にすることができる県は熊本だけかもしれません。それほどこの美術館を建てた当代の文化財に対する想いや見識が高かったということがこれだけでも垣間見れます。

 そんな熊本県のある意味で東京の本丸ともいえるアート施設、早速みていきましょう。

このブログで紹介する美術館

永青文庫

・開館:1972年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)

・場所 永青文庫 – Google マップ

「美術の殿様」が設立、大名家代々の名宝を収蔵・展示・研究

・東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館・研究所。第16代当主細川護立氏(1883年 – 1970年)によって設立され、運営主体は公益財団法人永青文庫。現:理事長は18代当主の細川護煕氏(元内閣総理大臣)。旧熊本藩主細川家伝来の美術品・歴史資料、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵。

 熊本県立美術館では「永青文庫展示室」を設け、永青文庫所蔵品の一部を年に数回入れ替えながら展示。 護立氏は「美術の殿様」と言われ、多くの旧大名家が伝来の名宝を美術館や個人に寄贈したり売却する中で、細川家は数多くの美術品を自ら管理し、保存。文庫名の「永青」は細川家の菩提寺である永源庵(建仁寺塔頭、現在は正伝永源院)の「永」と、細川藤孝の居城・青龍寺城の「青」から採られた。

 収蔵品は、歴代当主所用の甲冑、茶道具、書画、古文書などの細川家伝来品と、16代当主細川護立氏の蒐集品。収蔵品は中国美術(陶磁器、仏像、考古資料など)、白隠、仙厓などの禅画、禅林墨跡、近代日本絵画、刀剣など、近代日本画として横山大観、下村観山、菱田春草なども多数。

主なコレクション

・国宝8件、重要文化財35件をふくむ、およそ6,000点の美術工芸品と88,000点の歴史文書を所蔵(2023年現在)。細川家肖像画、茶道具、能・狂言、宮本武蔵と忠臣蔵、歴史資料、武具、中国美術、禅僧の書画、漆工芸、中世近世絵画、近代絵画、文学など12分野を中心に管理・収蔵・研究を進めているようです。(詳細ページ:https://www.eiseibunko.com/collection.html

織田信長自筆書状

長谷雄草紙(部分)

細川澄元像 狩野元信筆

黒き猫 菱田春草筆

芦雁図 伝宮本武蔵筆

永青文庫 コレクションリスト

いかがでしょう。なかなかしぶーいコレクションをお持ちです。(ここまでの規模・質を誇る大名家コレクションはなかなか無いと思います) 最後に「で、細川家って?」という方のために、私がものすごく分かりやすい資料を見つけましたのでそれを掲載して終わりたいと思います。(特別展開催のときのチラシです)

(参考)細川家とは

・鎌倉時代中期に足利義康の曽孫である義季が三河国額田郡細川郷(現在の愛知県岡崎市細川町周辺)を本領としてこれを名字としたのに始まる。南北朝時代、細川氏は足利尊氏に従い北朝・室町幕府方として活躍し、畿内・四国を中心に一門で8か国の守護職を占める有力守護大名となる。細川頼之は管領として3代将軍足利義満をよく補佐し、以後その嫡流である京兆家は、代々管領に任ぜられ、斯波氏・畠山氏とともに三管領(三管四職)の1つに数えられる。応仁の乱では細川勝元が東軍の総帥となる。

 戦国時代初期、勝元の子、細川政元は将軍足利義材を廃して実権を掌握し(明応の政変)、細川氏の全盛期を築いたが、養子の細川澄之を擁する家臣たちに暗殺される。さらに澄之も滅ぼされ、残る養子の細川高国と細川澄元の2派に分かれ、被官や畿内近国の諸勢力が結びついて20年余りも争った(両細川の乱)。この争乱の過程で澄元の実家阿波守護家の守護代であった三好氏が畿内に進出し、主家を凌ぐ勢力になってゆく。最終的には澄元の嫡男・細川晴元が京兆家家督となるが、三好長慶との抗争によって分国を失い没落。 13代将軍足利義輝が三好義継らによって殺害されると(永禄の変)、織田信長がその弟の足利義昭を擁立し、畿内から三好氏の勢力を一掃するが、晴元の子細川昭元は信長に属してその妹婿となり丹波国において二郡を所領として与えられる。

 傍流の細川藤孝(幽斎)は義昭の側近としてその将軍職就任に尽力。しかし義昭と信長の対立以降は長男の忠興(三斎)とともに信長に従い、名字を長岡と改めて明智光秀の組下として活躍、丹後一国を領した。本能寺の変では光秀に味方せず、羽柴(豊臣)秀吉に服した。秀吉の死後、徳川家康に属した忠興は関ヶ原の戦いの功により豊前国小倉藩39万9千石を領し、名字を細川に復した。その子・忠利の代に肥後国熊本藩54万石の領主となり、明治時代に子孫は侯爵となる。子孫の細川護熙は熊本県知事・内閣総理大臣を務めた。 細川氏は、多くの大名の中でも鎌倉、室町から江戸、現代まで名門として続いている稀有な家である。(以上Wikipediaより)
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…うーん、文章だといまいちピンときませんね。そんな方は最後にこれを眺めてみて下さい。結構頭に入ってくると思います。(そう考えるとデザインや広告って大事なのですね)

細川家の至宝_細川家とは?

 

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