宝塚の「男らしさ」はどこへ行く? 宝塚歌劇星組公演「柳生忍法帖」

宝塚歌劇

あけましておめでとうございます。
※マウス氏が本ブログ運営者、私(分かりづらいのでハンドルネーム:hien-hortensieとしておきます)が本来執筆者です。

今年もマイペースに(といっても昨年よりもう少し執筆スピードを上げたいですがw)、好きな絵本、演劇、映画、美術展などなどについて綴っていきたいと思いますので、お付き合いのほどよろしくお願いいたします。

 

さて、年末にライブ配信で宝塚歌劇星組公演「柳生忍法帖」「モアー・ダンディズム」を鑑賞しました。これがまた素晴らしい演目でした!最近の宝塚作品はしっかりしたお芝居の当たり作品が多い気がします。

今日は、お芝居「柳生忍法帖」を中心に、感想を記してみたいと思います。

 

原作は山田風太郎の同名の小説『柳生忍法帖』。名作と評される反面、エロ・グロの描写が多いことで知られる作品であるようで、演目が発表された時はその是非をめぐってファン界隈では議論にもなっていました。
私は原作は読まず終いでしたが、結果としてすごく素晴らしい作品だったと思っています。観劇した方々の評判を見ていても、原作のエッセンスや読みどころを適確に抽出し、なおかつ宝塚らしく上品に潤色されていると軒並み好評な印象です。

際立っていたのが、時代小説を下敷きとしながらも、現代的な問題意識が作品構造にきちんと加味されていたことです。これは間違いなく、理知派の座付演出家、大野拓史先生の手腕の賜物といえるでしょう。

私はこの作品を、「有害な男らしさ」や固定化されたジェンダー、そしてそこから脱却する人々の物語として観ることができると思いました。
「有害な男らしさ(Toxic masculinity)」とは、社会学の用語で、偏った男らしさのステレオタイプや男性優位の意識といったネガティブに顕在化する男性性のことで、社会的にマイナスの影響がある現象です。分かりやすい例では、「男は泣くな」「男は腕力だ」といった幼少期からの刷り込み、ホモソーシャルなグループで交わされる弱者排斥や女性蔑視の言動などがあります。
「柳生忍法帖」のあらすじをさらっと説明すると、弱者を虐げる悪逆非道な権力者たちを、ヒーローの剣豪、柳生十兵衛の力を借りて女性たちが成敗するという物語。作品内で描かれる敵役は3つに分かれます。まずは酒色に溺れる暗愚な会津藩主、加藤明成。彼を陰で扇動する真の黒幕、芦名銅伯。そして、その配下の戦士たちである七人の戦士、七本槍。彼らは魅力的な色悪でありながら、全員、まさに「有害な男らしさ」を体現するかのような存在です。
女性を慰み物としか見ていない明成は典型的ですが、藩主に取り入って没落した家の再興を狙う銅伯は、「家」という旧い制度(この時代はまだ現役ですが)に縛り付けられている存在です。地に墜ちた「家」の名を復活させ、その当主の座につくことを求めてやまない彼。その選択は彼自身の行動原理のようでありながら、実は自ら家制度の奴隷に身を堕としているとも言えます。銅伯と志を同じくする七本槍たちも、弱い立場の女子供を踏みつけにし、実力で今の地位を勝ち得てきた、まさに有害な男性性のメンタリティでできているかのような存在です。彼らの生きる世界は、強く過酷なヒエラルキーに支配された世界です。最下層にいるのは貧しい庶民たちや、搾取される女性や子どもたちばかり。弱肉強食、知恵や実力がなければ蹴落とされる過酷な世界の中で、彼らは憎しみや争いと共に「有害な男らしさ」を再生産させ続けているのです。
銅伯や七本槍たちによって蹂躙された会津の女性たち。愛する人を殺され、尊厳を奪われた彼女たちは、ついに復讐のために立ち上がります。しかし、女の立場であるがゆえ、強大な敵に立ち向かう力も技もありません。そこで千姫(白妙なつ)や天秀尼(有沙瞳)が彼女たちの剣技の指南役に推挙したのが、剣豪として知られる柳生一族の嗣子、柳生十兵衛(礼真琴)その人でした。

 

さて、この十兵衛。彼はまごうことなきヒーローでありながら、従来のヒーロー像とは少しかけ離れた存在です。剣術の名家に生まれながら、彼には帰属する家がない無頼漢です(縁を切っているという描写がされています)。トレードマークである隻眼も、彼のマイノリティ性を象徴しているようです。彼は男でありながら、明成や銅伯のような男性的な共同体に属さない、いわば「有害な男性性」から逸脱した存在として終始描かれています。

最初こそ、女性が剣を振るうなんて、とバカにした表情を見せる彼ですが、彼女たちの悲痛な思いに触れて協力を約束し、真摯に剣を指南します。彼女たちの痛みに寄り添う十兵衛の台詞の温かなこと。一筋縄ではいかない殺生の世界に彼女たちを巻き込んでいることに複雑な思いを見せながら、それでも常に彼女たちへの気遣いを見せる包容力たるや!

ここでポイントなのが、十兵衛は主体となって敵を成敗するではなく(もちろん自身でも剣は振るいますが)、あくまで仇を取るのは女性たち自身であるということ。彼は救世主でありながら、彼女たちの目的を補佐する役割に過ぎないのです。

女性があだ討ちをするという、ある意味で凄惨にも思える設定には、きっと反対意見も挙がったことでしょう。しかしこの物語の中で虐げられている張本人が彼女たち自身である以上、それに自分で落とし前をつけるのは、いかにも道理が通った話です。現代の女性も、怒りや憎しみといった負の感情を往々にして抑圧させられがちですが、本当に虐げられたときはきちんと怒っていいのだ、という大切なことを、この作品は教えてくれます。宝塚作品でも娘役の出番は男役に比べてどうしても少なくなりがちですが、舞台狭しと駆け回って、華麗に殺陣をこなす娘役さんたちの姿はとても活き活きとしていて、見ていて快哉を叫びたい気持ちでした。

作品内には、為政者たちの都合で理不尽に虐げられた女性たちがこれでもかと登場します。彼女たちの最も象徴的な存在が、ヒロインであるゆら(舞空瞳)です。彼女の境遇のあまりの悲しさに、私は終始彼女に感情移入して観ていました。
銅伯の娘で絶世の美貌を誇るゆらは、この男性的な共同体の中で唯一と言っていい女性の権力者です。しかし、その家柄と容姿ゆえに恋人に裏切られ、父の政治的な駆け引きの道具として意に反して明成に輿入れさせられてしまいます。会津の頂点に咲き誇る美しい花でありながら、男たちによって完全に主体性を奪われた仇花に過ぎない存在が彼女なのです。
彼女の使う術である蟲毒は、彼女の苦しい立場を端的に表しています。敵の男を惚れさせて殺したり、男をめぐって女同士を争わせ殺すように仕向ける恐ろしい媚薬。自分の身を汚さず、敵同士を争わせ自滅させるというこの術は、自身の立場を守るために多くの犠牲を生まざるを得なかった彼女の半生を象徴しています。父と共に十兵衛を追い落とそうとするゆらですが、彼は辛くもこの術を見切り、難を逃れます。さらに十兵衛を殺させようと女性たちに仕掛けた蟲毒も、彼女たちの意志の力によって断ち切られます。この場面、自分より弱いと高を括っていた女性たちに術が破られたゆらの驚きを隠すことができない表情が印象的です。

男たちの操り人形だった彼女が持たなかった意志=自我を、ほかならぬ彼女たちが持っていることに気がつくゆら。彼女たちの心の支えは、宿敵だと思っていた十兵衛でした。ゆらは瞬く間に十兵衛に惚れてしまいます。それもそうですよね、男たちから利用され続けてきた自分を損得勘定で見ないただ一人の男が彼だったのですから。

父や夫からの軛を解き、自分をどこか遠くへ連れ去ってくれと十兵衛に懇願します。自身の術(=蟲毒)にかかったか、と色をなす銅伯を前に、この想いが自分自身の意志によるものであることを、彼女は高らかに宣言します。この場面のゆらの台詞「この香の匂い(=蟲毒)は身体に染みついて、今では蛆でさえ寄り付かない」は、彼女の壮絶な半生をよく表しています。取り返しがつかないほど罪に染まっていることを自覚しながらも、愛と自由を求めざるを得ない彼女の心の叫びが胸を打ちます。
この後、十兵衛とつかの間の穏やかな時間を楽しんだゆらは、しかし願い空しく十兵衛を庇って殺されてしまいます。男たちから搾取され尽くされ、自我と幸福に目覚めた瞬間に命を落とす彼女の運命はあまりに過酷ですが、今に至るまでの女性を取り巻く不条理な状況を、極端にも象徴的に表している存在が彼女だと言ってもよいのではないでしょうか。

 

十兵衛の奮戦、そして女性たちの知恵と力で七本槍は次々と死に、仇討ちは果たされます。銅伯は宿命に斃れ、明成も藩主の座を追い落とされます。ラスト、尼寺に戻って一族の男たちの菩提を静かに弔う女たちの姿を見届けて、十兵衛は静かに去っていきます。「俺だけが弔える女がいる」という彼の最後の台詞がいいですね。ヒロインのゆらとはいわゆる宝塚らしいベタベタの恋愛関係ではなくとも、一人の女性をいつまでも深く心に留めているのが分かる台詞でした。一人去っていく背中がかっこいい。

 

この作品で描かれるほど極端ではないにしても、男性中心的な思想や偏見、マッチョイズム、女性や弱者への迫害や暴力は今も社会の病巣になっており、そこから一人一人がどう脱却するかが問われて続けています。そのような状況下において、女性だけが所属し、女性が顧客の中心層である劇団で、彼女たちをエンパワーメントするようなこのテーマが扱われたことは、大きな福音なのではないでしょうか。十兵衛と女たちの戦いは、いわば有害な男性的な共同体の中から、自己の尊厳と主体を取りもどす戦いであり、それはそのまま現代のすべての人々の、そして女性である彼女たちの問題とも重なります。エンターテインメントでありながら、こうしたきちんとした社会的メッセージや問題意識がある作品は、演者も観る人々をも強く勇気付けてくれます。

どうしても男役スターが中心にならざるを得ない(私としてはそれもどうかとは思いますが)宝塚では、男性性の表象も、毎作品ごとにさまざまになされています。もちろん魅力的で色気のあるキャラクターがほとんどですし、近年は女性座付演出家の活躍も目覚ましく、新しいタイプの男性や女性のキャラクターも登場し、脚光を浴びています。その一方で、この「有害な男性性」が役として肯定的に描写されているような作品もいまだに存在します。

そんな状況下で、本作の柳生十兵衛は、とても現代的で今日的な新しい男性像ということができると思います。この作品は、文化でもありエンターテインメントでもある宝塚の構造の核心にも迫っていると言えるでしょう。

男役を通して描かれる男性性の表象がこれからどうなっていくのか、というのは、宝塚の命運はもちろんのこと、演劇界全体の今後を占う大きなトピックだと思っています。この作品をきっかけに、そのような視点からも、これからの宝塚を注意深く見守っていきたいと思います。

 

さて、次の記事では、いよいよきちんと絵本のレビューに戻りたいと思います。そして展覧会の感想も書きたい!次回もどうかお楽しみに。

 

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