薩摩藩主の旧居住地に立地、日本近代洋画史に金字塔を打ち立てた作家たち 鹿児島市立美術館

鹿児島県

こんにちは。今日は先日の「霧島アートの森」に続いて、鹿児島を代表する公立館のご紹介です。繰り返しになりますが、マウス的にはこの館があったからこそ、県側は鹿児島市内ではなく霧島にしかも現代アートの専門館を建てたのではないかと推測しているほどです。それほどまでにこの美術館が、特に近代日本洋画史において果たしてきた功績が大きいのではないかと思っています。それでは早速ご紹介していきましょう。

このブログで紹介する美術館

鹿児島市立美術館

・開館:1985年
・美術館外観(以下画像は美術館HP、市観光協会HPより転載)

・場所
鹿児島市立美術館 – Google マップ
→鹿児島市電、朝日通駅下車すぐです。

薩摩藩主の旧居住地に立地、19世紀末以降の西洋美術の作品を中心に収集

・薩摩藩主島津氏の居城であった鶴丸城二の丸跡(城山の山麓)に立地。鹿児島の歴史的に、政治、文化の中心地として発展してきました。(市立美術館の前身は1954年(昭和29年)に岩崎与八郎氏の寄付により歴史資料館としての機能を持ち開館。以降、県内唯一の公立美術館として独自のコレクションをすすめ、展示その他の美術館事業を通して地域の芸術文化の振興に寄与してきました。)

※岩崎与八郎氏とは…鹿児島県の実業家。岩崎産業グループの創業者。(←後ほど振り返ります)

1985年(昭和60年)、多様化する美術活動と市民の要望に対応するため、旧美術館を解体、新しく美術館を建設し、現在の地に開館します。本美術館は、地元関係作家を中心とし、あわせて19世紀末以降の西洋美術の作品を主として収集、保存、展示する美術館としての運営をめざしているそうです。

美術館の基本方針

①地元作家を中心とし、あわせて19世紀末葉以降の内外の作家の作品を主として収集・保存・展示する美術館とします。
②専門家はもちろん、広く市民と手を結んだ開かれた美術館とし、美術情報センターおよび美術活動の場としての機能を充実します。
③だれでも気軽に訪れることのできる心のやすらぎの場とします。
④風土性豊かなたたずまいのうちに未来を志向する美術文化の一拠点とします。

主な収蔵作品~近代日本洋画史に金字塔を打ち立てた作家たち

郷土ゆかりの作家

・鹿児島は日本の近代洋画の発展に貢献した黒田清輝や藤島武二、和田英作をはじめ、版画の橋口五葉、彫刻の新納忠之介、工芸の宮之原謙など多くの優れた作家を輩出、美術館ではこうした郷土作家の系譜コレクションを収蔵しています。

日本画

<木村探元>

油彩画

<黒田清輝>

<藤島武二>

<和田英作>

<有島生馬>

<東郷青児>

<山口長男>

→黒田清輝、藤島武二、和田英作…ぜひ一度足を運んでいただきたいため多くは語りませんが、恐らくこの中から日本近代洋画における初めての国宝が指定されるのではないかとマウス的には勝手に予想しています。(※重要文化財はありますが、まだ日本洋画で国宝はありません)
それにしても鹿児島はじめ九州は青木繁、岡田三郎助、坂本繁二郎、古賀春江と日本近代洋画の名手達がたくさんいます。つくづく明治維新というのは単に政権が覆っただけでなく、こういった文化の面でも開花した時代だったのだなと感じさせられます。(恐らく種々の圧力から解放され、自由な空気の中で新しい表現も育っていったのかもしれません)

版画

<橋口五葉>

彫刻

<新納忠之介>

<安藤照>

桜島コレクション

・鹿児島を代表する火山・桜島、美術館では「桜島コレクション」として桜島や郷土の風景を取り上げた作品も収蔵しています。

日本画

<江口暁帆>

<西山英雄>

油彩画

<香月泰男>

<山下兼秀>

西洋美術

・モネやピサロ、ルノアール、セザンヌ、カンディンスキー、ウォーホル、ロダン、アーキペ・コなど、19世紀の末葉から現代に至る西洋美術の流れをたどる作品の収集をしています。

油彩画

<クロード・モネ>

<ポール・セザンヌ>

<オディロン・ルドン>

<ピエール・ボナール>

彫刻

<オーギュスト・ロダン>

→美術館ホームページには美術館発行の季報もありましたのでこちらも掲載しておきます。
鹿児島市立美術館だより2022冬

(付録)岩崎与八郎と岩崎産業グループ

・最後に、鹿児島市立美術館設立に大きく寄与した岩崎与八郎とその岩崎産業グループについて触れておきたいと思います。

岩崎与八郎とは

・1902年(明治35年)、当時の鹿児島県囎唹郡岩川村(現在の曽於市の一部)に生まれる。父は宮崎県西諸県郡小林村(現在の小林市)出身の人物で、岩川の種畜場に来て働いているうちに岩崎たねと結婚したが、酒飲みであることをたねの両親に嫌われて与八郎誕生後まもなく離縁され、与八郎は岩崎姓で育つことに。父は、与八郎が小学生のうちに死去。たねの母親は、江戸時代に名主の下役の名頭をしていた名家の生まれで、その実家からの援助でたねは岩川に「みどり屋」という旅館を買って経営し、1人で与八郎を育てた。岩川尋常高等小学校高等科を卒業し1917年(大正6年)に14歳で社会に出る。

元貴族院議員の中山嘉兵衛が岩川で経営していた岩川醸造(中山商店)で働くことに。店番として客の応対や仕入れをする傍ら、夜間に簿記学校に通う。

地元の岩川に鉄道省(国鉄)志布志線の建設工事が始まり、実家の旅館に工事関係者が宿泊するようになると、その工事関係者から鉄道用の枕木の納入業者となることが有望であるとの話を聞きつけ、1922年(大正11年)に岩崎商店を創業、借金をして上京し鉄道省との交渉を行う。しかし、岩崎氏が若すぎて実績がないことを理由に納入業者の指定を受けることができなかった。ところが、1923年(大正12年)に関東大震災が発生すると、鉄道網も大きな被害を受けて復旧資材が大量に必要となり、岩崎氏は鉄道省から呼び出される形で急に納入業者としての指定を受けることに。その後、短期間で日本一の枕木納入業者へと成長。
(→私も某半官半民の会社で仕入れ担当をしていたことがありますが、こういうところって実績とかルールが固くてなかなか新規業者として入れないのですよね…ある意味震災や災害のときのチャンスって大きいのかもしれません。余談ですが)

1924年(大正13年)、22歳で財部村出身で2歳年下の田口芳江と結婚。

代議士の岩川与助に依頼して郵便逓送事業の許可を受けることができ、鹿児島市に転居して郵便逓送事業も行うように。その後、世界恐慌により打撃を受ける業者が多い中で、岩崎商店は取引先が鉄道省・逓信省という2つの役所であったため大きな影響を受けることはなく、逆に、不景気で買う人がいなかった奄美大島の山林を買ってくれるよう依頼があり、これを購入してそこから産出する木材をやはり枕木へ加工して販売を行った。第二次世界大戦に際しては、日本の影響下にあった朝鮮総督府鉄道・南満州鉄道・華北交通・華中鉄道などへも枕木の販路を拡大。

第二次世界大戦が終結して連合軍が進駐してくると、岩崎氏は戦争協力者として連行され取調べを受ける。その姓から三菱グループ創業家との関係を疑われたが、無関係であると釈明。(→確かに当時の岩崎姓は確実に関係が疑われますよね…)

その後、物資不足の中で肉や魚などの差し入れを盛んに行って進駐軍との関係を構築。朝鮮戦争が発生すると、朝鮮半島での鉄道復旧に資材が必要となり、枕木の大量発注を受けて大きな利益を上げる。

第二次世界大戦後は、運輸・観光事業へも進出。1952年(昭和27年)に、当時既に経営が傾き始めていた南薩鉄道の取締役に請われて社長に就任。加えて、大隅半島にバス網を持っていた三州自動車からも買収して欲しいとの声がかかり、1953年(昭和28年)に社長に就任。これにより薩摩半島南部と大隅半島の両方にバス網と南薩鉄道の鉄道路線を抱えて交通網を掌握、両社は1964年(昭和39年)に合併して鹿児島交通となる。

さらに屋久島の観光開発を考えて、当時破格の1,000 トンクラスのフェリー「屋久島丸」を建造、1961年(昭和36年)就航。こうして鹿児島と離島を結ぶ航路も傘下に収める。

観光事業では、指宿温泉の開発に着手。当時は「いぶすき」と正しく読んでもらうことは難しく、田舎の湯治場に過ぎず、200名の団体客が来れば受け入れに苦労するといった状態であった。ここに初めての大規模観光ホテルである「指宿観光ホテル」を建設、1956年(昭和31年)に開業。1959年(昭和34年)には、名物となる「ジャングル浴場」を開設して有名となり、全国から観光客を集めるように。
※写真はイメージです

1972年(昭和47年)にはオーストラリア進出を目指して、豪州岩崎商事を設立。1984年(昭和59年)にリゾート開業。これを記念して、鹿児島市平川動物公園にオーストラリア側からコアラが寄贈される。晩年まで活発に事業活動を続けたが、1993年(平成5年)、入院中の鹿児島大学病院で、家族に看取られながら老衰のために亡くなる。満91歳没。

→鉄道関連事業で身を起こした人物だったのですね。指宿温泉の「ジャングル浴場」…入ったことがありますでしょうか?岩崎与八郎、仕事に非常に厳しかった人のようで、自分の意に沿わない社員を激しく叱り付けたり、枕木用木材の仕入れで出張させた社員と少しでも連絡が途絶えると、仕事はどうなっているかと詰問する電報を送ったということです。

一方で、社会貢献も積極的に行い、地元に学校がなくて自分が進学できなかったことを気にしたこともあり、1941年(昭和16年)には町立岩川工業学校(後の鹿児島県立岩川高等学校)を建設して寄贈、1943年(昭和18年)には鹿児島医学専門学校の発足に際して寄付。1945年(昭和20年)には鹿児島大学工学部の前身となる鹿児島県立工業専門学校設立も支援しています。

…まさに地元の雄という感じですね。(山形美術館創設と似た感じを受けます)

岩崎産業グループについて

文字量が増えたため詳細は割愛しますが、この岩崎産業グループは今でも鹿児島を地盤に経営を続けられています。(https://www.iwasaki-group.com/

宿泊、観光業、交通産業と幅広く手掛けられていますので、皆さんも鹿児島に行かれる際はぜひ利用してみてはいかがでしょうか。そして鹿児島市立美術館への来館をお忘れなく!

 

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