こんにちは、マウスです。現在、東京の美術館をご紹介しています。
東京…さすが日本の首都、美術館や美術運動1つとってもその本拠地ともいえる重要な施設が沢山あります。
今日ご紹介するアート施設は、文芸雑誌『白樺』の創刊にも参画し、その後、倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家:大原孫三郎氏(→大原美術館の創設者ですね)などの支援を得ながら、1936年に柳宗悦氏が設立した施設です。
もはや、この館や民藝運動、民藝品については私がここでツラツラ書かなくとも多方面で研究が進んでおり、また、本気でこれを語ろうとするととても1回のブログ記事では書ききれません…ということで、どうしても概要だけとなってしまうことご容赦願います。
(民藝運動については、静岡市立芹沢銈介美術館や河井寛次郎記念館でも触れました。また柳宗悦や雑誌『白樺』については山梨県の清春芸術村 白樺美術館でも触れました。)
そんな近代日本美術史において重要な運動の1つである民藝運動…その本拠地とも言える日本民藝館について今日はみていきましょう。
このブログで紹介する美術館
日本民藝館
・開館:1936年 ※歴史、古いです。
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)
民藝運動の本拠地、無名の職人が作る民衆の日常品の美の結晶
・日本民藝館は、「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠として、1926年に思想家の柳宗悦(1889-1961)らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎氏をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年に開設。「民藝品の蒐集や保管」「民藝に関する調査研究」「民藝思想の普及」「展覧会」を主たる仕事として活動しています。
初代館長には柳宗悦氏が就任二代目は、二代目は陶芸家の濱田庄司氏(1894-1978)、三代目は宗悦氏の長男でプロダクトデザイナーの柳宗理氏(1915-2011)、四代目は実業家の小林陽太郎氏(1933-2015)、そして現在はプロダクトデザイナーの深澤直人氏が館長職を継いでいます。
本館には柳氏の審美眼により集められた、陶磁器・染織品・木漆工品・絵画・金工品・石工品・編組品など、日本をはじめ諸外国の新古工芸品約17000点を収蔵。1925年、民衆の用いる日常品の美に着目した柳宗悦氏は、濱田庄司氏や河井寬次郎氏らとともに無名の職人達が作った民衆的工芸品を「民藝」と名付けます。そして、1926年に陶芸家の富本憲吉氏の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。 民藝品の公開・展示のみならず、調査・蒐集や保存・管理するための美術館施設の設立計画を始動させていきました。
→下線を引きましたが、こういう歴史や価値観の大幅な転換点には芸術家や思想家だけでなく、必ず実業家が支えているというのが面白い点です。大原孫三郎氏は今のクラボウやクラレなどの財閥の創始者で大原美術館を開設した方、小林陽太郎氏は現在の富士ゼロックスの会長を務められた方です。
いずれも大企業のトップでありながらこのような民藝の考え方に共感したところはこの民藝運動の重要なターニングポイントであったような気がします。
柳宗悦氏の美術館構想について
・柳氏の美術館設立の夢は早くは1917年に発表された白樺美術館建設計画からあり、柳氏は『白樺』同人としてこの活動の中心メンバーとなり活動。施設の完成までには及びませんが、私設美術館の先駆けとなります。 1924年には「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設。これは主として朝鮮時代に作られた無名の職人の手になる民衆の日常品の美を紹介するための小規模な美術館で、日本民藝館の原点ともいえる存在となりました。
朝鮮民族美術館の実現を契機として、民藝館設立に向けての運動が本格化していきます。まず、1928年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博覧会に、民藝運動の同人と諮(はか)り「民藝館」を出品。これは都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームで、その什器には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれました。
博覧会終了後は、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎氏がこの建物や什器を買い上げ、大阪・三国の山本邸内に移築して「三国荘」とします。また、この頃、柳氏は再建中の東京帝室博物館に対して、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れています。しかし、この提案はあえなく断られて、これを機に、官に頼らない美術館設立の決心を固めることとなります。なお、1929年に訪れたスウェーデンの北方民族博物館やスカンセン(野外博物館)も、柳氏の美術館構想 に大きな影響を与えています。
1931年、浜松に日本民藝美術館を開設。二年余りの活動でしたが、民藝館設立のための大切な準備となります。民藝思想の普及や地方の手仕事の振興などに力を注いだ柳氏は、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会を1934年に発足。1936年に「日本民藝館」が東京・駒場の地に開設されると、柳氏は初代館長に就任、ここを活動の拠点として様々な展覧会や調査研究を展開していきました。
民藝館設立以後の柳氏の主な活動としては、日本各地への工芸調査や蒐集の旅、沖縄への工芸調査と言語政策(方言)をめぐる論争、アイヌや台湾先住民の工芸文化の紹介、茶道改革への提言などにも取り組み、民藝運動では三角したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寬次郎、芹沢銈介、棟方志功、黒田辰秋などの工芸作家は、実用を離れた当時の工芸の在り方に一石を投じるなど、日本の近代工芸界に大きな流れを作っていきました。(日本民藝館HPより)
民藝とは
(ここであらためて民藝運動をふりかえっておきましょう)
・民衆の工芸品の略語。民衆の間でつくられた日常の生活用具のうち、機能的で健康な美しさをもつ工芸品とその制作活動。大正末期(1920年代)に柳宗悦(むねよし)によって提唱された。 それまで下手物(げてもの)とよばれて美術の分野から無視されていた日用雑器に光をあて、手仕事のよさと美的な価値を認めようというもので、朝鮮、沖縄や日本各地の江戸時代から昭和初期の民芸品が特集形式の雑誌『工芸』(1931~51、全120冊刊行)などに紹介され、1936年(昭和11)には東京・駒場(こまば)に日本民藝館が設立されて、民藝運動の拠点となった。民藝品の本来の特性を明らかにし、その工芸美を認識し、技術の保存・普及・復興を図ろうというもので、その主張は次の点で区分されています。
(1)実用性 一般生活に実際に使われる目的で制作されたもの。
(2)民衆性 作者の銘を入れないこと。
(3)手仕事であること。
(4)地方性 その地方の伝統と特色を生かしたものであること。
(5)多数性と低価格 民衆の日々の用にあて、いつでも求められること。
→なお、日本民藝館のHPにはかなり詳しく沿革がのっています。更に詳しく知りたい方は以下URLなどを参考にしてみて下さい。
〇民藝活動の沿革:https://mingeikan.or.jp/about/history/?lang=ja
柳宗悦と日本民藝館について
(民藝の考えにおいて、最重要人物と言っても過言ではない柳宗悦と民藝運動について少し詳しく解説です)
・思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)は、1889年に現在の東京都港区で生まれます。1910年、学習院高等科卒業の頃に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。宗教哲学や西洋近代美術などに深い関心を持っていた柳氏は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業。その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳氏は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれます。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任。以後1961年に72年の生涯を閉じるまで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集の旅、旺盛な執筆活動などを展開。晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれます。
柳宗悦は、1889年に柳楢悦と母勝子の三男として東京に生まれ、父:楢悦は海軍少将、和算家としても知られていたそうです。また、母:勝子は嘉納治五郎(教育家で講道館柔道の創始者)の姉でした。1910年、志賀直哉・武者小路実篤ら学習院の仲間達と文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。人道主義・理想主義・個性尊重などを唱え、大正文化の中心的担い手となった『白樺』の中でも、柳は持ち前の語学力や美的感性を生かし、同誌の中心的メンバーとして活躍します。英国人:バーナード・リーチともこの頃に知り合い、心霊現象、キリスト教神学などに関心を深め、西欧近代美術の紹介にもつとめた柳氏は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業。この頃より、神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクに傾倒します。みずからの「直観」を重視するブレイクの思想は、芸術と宗教に立脚する独自な柳思想の基礎になります。そして、これを契機にして、柳の関心はしだいに宗教的真理と根を同じくする「美」の世界へも向けられていきます。
1914年、声楽家中島兼子と結婚して千葉県我孫子へ転居。生涯の友となる濱田庄司との交友も我孫子で生まれるます。同年、韓国で小学校教師をしていた浅川伯教が朝鮮陶磁器を手土産に柳を訪ね、その美しさに魅了された柳氏は、1916年以降たびたび朝鮮半島へ渡り、朝鮮工芸に親しむようになります。そして、民族固有の造形美に目を開かれた柳氏は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判します。1921年、日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催。1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設していきます。関東大震災を機に、柳は京都へ転居。河井寬次郎との親交もこの頃に始まります。そして、民間で用いられる日常品への関心は、1924年から始まった木喰仏調査の旅や、濱田が英国より持ち帰ったスリップウェア、また京都の朝市を中心に開始された下手物の蒐集などを契機として、「民藝」の思想へと結実していきました。
「民」は「民衆や民間」の「民」、そして「藝」は「工藝」の「藝」を指します。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見ました。 また、柳氏は独自の民藝美論を骨子とした初の本格的な工芸論『工藝の道』(1928年刊)を著し、工芸美の本道とは何かを説き、そして来るべき工芸のあり方を示します。また、1931年には、雑誌『工藝』を創刊。この雑誌は、「暮らしの美」を啓発する民藝運動の機関誌として重要な役割をはたしていきました。
自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳氏は「民藝美論」と呼ばれる独自の理論によって説きます。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想になぞらえて、「美の他力道」という言い方もされます。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすもので、柳氏は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説きました。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることです。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となりました。(民藝館HPより)
→実は以前、私は茨城県天心記念五浦美術館の回でラスボスが岡倉天心(ちなみに裏ボスは千利休)と述べたことがあります。日本においては、千利休、岡倉天心と、いつも時代は美学・美術の歴史においては大思想家によって支えられてきました。そうであるならば、この柳宗悦は千利休、岡倉天心の考えを更に肉付けして形あるものとした人だと言ってもいいかもしれません。
美術に詳しくない人でも千利休、岡倉天心、そしてこの柳宗悦の歴史をななめ読みするだけでも、日本や日本人の美(意識)というものが何となく解るのではないかと考えています。
全国の民藝館
なお、(あまり知られていませんが)日本民藝館創立後、民藝運動に共鳴した人々によって、民藝館・工藝館が全国各地に作られ今でも活動を続けています。(大阪日本民芸館、松本民芸館、富山市民芸館、日下部民藝館、豊田市民芸館、倉敷民藝館、鳥取民藝美術館、出雲民藝館、熊本国際民藝館、愛媛民藝館、京都民芸資料館など)
以下のURLに全国の民藝に関する館の一覧が載っていますので参考にしてみて下さい。
〇全国の民藝館:https://www.nihon-mingeikyoukai.jp/pavilion/
主な収蔵品
・収蔵品は以下の区分に分けて管理されています。掲載のURLで画像を観ることができます。どんなコレクションを形成しているのか参考にしてみて下さい。
日本
陶磁
染織
木工・漆工・彫刻
絵画
沖縄の工芸
アイヌの工芸
その他
朝鮮半島
陶磁
木工・漆工
絵画
その他
台湾
中国
欧米
作家作品
バーナード・リーチ
・1887-1979。イギリス人、香港で生まれる。幼児期は日本で過ごす。帰英後は、ロンドン美術学校などでエッチングを学ぶ。1909年日本への憧れを強くし再来日。上野桜木町に居を構えてエッチングを指導し、入門してきた柳宗悦ら白樺派の人々と親交を結ぶ。1911年六代目尾形乾山に富本憲吉とともに入門、その後千葉県我孫子の柳邸内に窯を築くなど日本国内で作陶を始める。1920年濱田を伴って帰英、コーンウォール州セント・アイヴスに日本風の登窯を築き、1922年にはリーチ工房を設立し生涯の拠点とした。 柳宗悦とはウィリアム・ブレイクや陶磁器への関心を通して、芸術に関する思想的な影響や刺激を与え合う生涯の友として親しく交わった。 日本民藝館が所蔵するリーチの陶磁作品は約120点。スリップウェアなどの西洋陶器と東洋陶磁の技術を融合させた独自の作風が特徴的である。来日の折に訪れた小鹿田や二川、布志名など地方の窯場で作られた作品も所蔵している。また、身近な人物や旅先の風景などを題材にしたエッチングや素描作品も約100点ある。リーチ工房は、2008年より記念館兼製作工房として公開されている。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/bernard_leach/?lang=ja
河井寬次郎
・1890-1966。島根県安来市生まれ。中学時代に焼物の道を志し、1910年、東京高等工業学校窯業科に入学。同校では2年下級だった濱田庄司と親しく交わった。卒業後は京都市立陶磁器試験場に技師として入所。1920年、京都市五条坂に工房「鐘渓窯」と住居を構える。翌年の初個展では、東洋古陶磁の技法を駆使した雅やかな作品が好評を博した。しかし、次第に自らの仕事に疑念を抱き、濱田を介して柳宗悦と親交を結ぶや作風を一変させた。1925年には、柳、濱田らとともに「日本民藝美術館設立趣意書」の起草に参加、その後は民藝運動の推進者として多くの工芸家を牽引していった。 日本民藝館の河井コレクションは1930年代から1950年代を中心に約250点。その全てが柳宗悦の眼によって選ばれたものである。皿、茶碗、鉢など、河井が得意とした型作りによる簡素で重厚な形状と、それを彩る色鮮やかな釉薬、躍動感あふれる独自の文様が施されている。実用に即したものが多いことが、本館所蔵の河井作品の特徴と言えるだろう。京都の旧宅は河井寬次郎記念館として公開されている。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/kawai_kanjiro/?lang=ja
濱田庄司
・1894-1978。神奈川県川崎市に生まれる。1913年、東京高等工業学校(現東京工業大学)の窯業科に入学し、上級の河井寬次郎と親交を結ぶ。卒業後は河井と同じく京都市立陶磁器試験場に入所。柳宗悦とは1919年、我孫子の柳邸にバーナード・リーチを訪問した折に出会う。翌年、リーチとともに渡英。セント・アイヴスで作陶生活を送る。帰国後の1924年、京都の河井寬次郎邸に滞在中、柳と河井を引き合わせる。同年、確かな生活に根差した製作の場を求め、栃木県の益子へ居を移し以後活動の拠点とする。 濱田は、柳、河井とともに民藝運動を推進した中心的存在であり、同時に民藝理論のよき実践者であった。物心両面から民藝運動を支え、1961年柳の没後には日本民藝館館長に就任した。 日本民藝館が所蔵する濱田庄司の作品は約450点。作陶の拠点であった益子の土と釉薬を用いた作品が多い。濱田が得意とした流掛や赤絵、塩釉などの技法や、「黍文」と呼ばれる独自の文様を施した作品は、どれも力強く健康的である。1977年、旧居に自らの仕事の参考とした蒐集品を展示する益子参考館(現・濱田庄司記念益子参考館)を開館した。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/hamada_shoji/?lang=ja
芹沢銈介
・1895-1984。静岡県静岡市生まれ。1916年、東京高等工業学校図案科を卒業。1927年、柳宗悦の『工藝の道』を読み深い感銘を受け、さらに翌年、沖縄の紅型の美しさに強い衝撃を受けて、染色家になることを決意する。紅型と和染に学び、図案・型彫り・染めまでを一貫して行う「型絵染」の技法を生み出し、明るい色調と明快な文様を特徴とする作品を数多く生み出した。 柳宗悦の依頼により1931年創刊の雑誌『工藝』の装幀を手がけることで、染色作家として民藝運動に本格的に参加するようになる。日本民藝館では、着物、帯地、屏風、のれんなど約200点の作品を所蔵している。また、生活を美しく彩る工芸を目指した芹沢の仕事はさまざまな分野に展開され、『民藝四十年』『蒐集物語』など柳の著作の装幀、「絵本どんきほうて」などの絵本類、柳宗悦邸の客間に用いられた小襖等、様々な作品が収蔵されている。 郷里の静岡市に「静岡市立芹沢銈介美術館」があり、宮城県仙台市には「東北福祉大学芹沢銈介美術工芸館」がある。 https://mingeikan.or.jp/collection_series/serizawa_keisuke/?lang=ja
棟方志功
・1903-1975。青森県青森市生まれ。1924年、画家を志して上京。1928年、帝展に油絵が初入選。1926年、川上澄生の版画に深い感銘を受けて、油絵画家から版画家へと転向する。 1936年、国画会の出品作「大和し美し版画巻」が、柳宗悦や濱田庄司に注目され、開館を控えた日本民藝館の買い上げ作品となる。これがきっかけとなり、河井寬次郎を交えた民藝運動の指導者らとの交流が始まり、以後の作品制作に多大な影響と刺激を受けていった。 日本民藝館が所蔵する棟方作品は、版画(1942年以降、棟方は「板画」と表記)を中心に肉筆画や書など約200点。それらは全て柳の眼を通して収蔵されている。柳の装案によって飾られ、作品と一体となった軸装や屏風の美しさは当館所蔵の棟方作品のひとつの特徴と言えるだろう。 1973年、鎌倉に棟方板画美術館が開館(2010年現在休館)。1975年には青森市に「棟方志功記念館」が開館した。
https://mingeikan.or.jp/collection_series/munakata_shiko/?lang=ja
…いかがでしょう。作家作品のところだけ民藝館の解説を載せてみましたが、それにしても膨大な情報量です。民藝がいかにいろんな方面から注目を浴び、研究されているかがわかると思います。それだけこの考えは日本の美意識の研究において重要だということを示唆しています。棟方志功や芹沢銈介など、本ブログでもご紹介してきた作家たちも出てきました。
まだまだ本ブログでも書ききれないことが沢山ありますが、既に1万字を超えそうな勢いですので、一旦ここで次の美術館にいきたいと思います。
それにしても、やはり東京…このような新たなチャレンジの舞台として古今東西さまざまな精鋭たちが集まってこのように歴史を刻んでいる場所や館が多い印象です。まだまだ歴史的にも収蔵品としても重要な美術館が待っています。引き続き、本ブログ「絵本と、アートと。」をよろしくお願いします。
(マウス)
コメント