旧財閥が江戸時代から収集した美術品を収蔵、国宝に指定された円山応挙の代表作と茶室「如庵」の再現 東京:三井記念美術館

東京都

こんにちは。今日ご紹介する美術館も東京駅近く、日本橋に立地しています。
 こちら、1985年に東京都中野区上高田に「三井文庫」として開館し、2005年に旧三井鉱山㈱(現:日本コークス工業㈱)の入居していた東京都中央区日本橋室町の三井本館(※こちらも重要文化財建造物です)7階に移転し再オープンしました。

 恐らく本美術館が所有している円山応挙の代表作は皆さん本物は目にしたことなくても、テレビや教科書などで一度は見たことがあるかもしれません。
それくらい貴重なコレクションをもつ美術館、早速みていきましょう。

このブログで紹介する美術館

三井記念美術館

・開館:2005年 ※前身は前述の通り1985年に中野区に開館した三井文庫です
・美術館外観(以下画像は美術館HP、都、観光協会HPより転載)

・場所:三井記念美術館 – Google マップ

旧財閥が江戸時代から収集した 美術品を収蔵、国宝に指定された円山応挙の代表作と茶室「如庵」の再現

・2005年10月に中野区にある三井文庫別館を移転して日本橋に開館した美術館。日本橋は「日本の文化を残しながら」をコンセプトの1つとして再開発が進み、近代的な街並みと江戸情緒が共存したエリアで、日本橋は江戸時代以来、三井家および三井グループにとって縁の深い場所というのが移転のきっかけになりました。

 美術館は、昭和初期の日本を代表する洋風建築として知られ、国の重要文化財に指定されている三井本館の7階にあります。入口は隣の超高層ビル「日本橋三井タワー」の1階アトリウムにあり、近代的な街並みから由緒ある洋風建築の建物に入り、エレベーターで7階に上がると展示室に到着します。落ち着いた空間に置かれる日本と東洋の美術品の数々をゆっくりと鑑賞可能です。

 所蔵作品は、江戸時代から三井家が収集し伝えてきた日本・東洋の美術品が中心。それらは茶道具を中心に、絵画、能面、能装束、刀剣、経典、拓本、書跡、調度品など多岐にわたっています。美術館の特徴的な取組みとして、開館以来、これらの作品に伝統的な日本・東洋の「造形の美」と「用の美」を再発見する試みを続けてきています。

美術館の歴史と主なコレクションについて

(以下は美術館HPからの引用です)
・三井グループで知られる三井家は、元祖:三井高利(1622~94)が伊勢松坂から息子達に指示を出し、延宝元年(1673)に江戸本町に「越後屋」を開店したことに始まります。呉服の反物の切り売り現金取引をして庶民の人気を集め繁盛、その後、京都、大坂、江戸で呉服と両替店を開き、幕府の御用、朝廷の御用を受けるほどになりました。その後事業を拡大、明治以降は三井銀行や三井物産を設立するなど戦前は150社余に及ぶ三井財閥を形成します。 三井家は三井高利の子ども達の時代に、長男:高平が惣領家北家、三男:高治が新町家、四男:高伴が室町家、九男:高久が南家など11家とされます。経営面で様々な浮沈もありましたが、各三井家がそれぞれ美術品を収集、特に享保から元文年間の営業収益が伸びた時期は、茶道具を主とする名物道具の収集が盛んでした。三井記念美術館は、北家、新町家、室町家、南家、伊皿子家、本村町家のほか、三井家の親戚である鷹司家からの寄贈を受けた美術品約4000点を所蔵しています。 館蔵品は、北家から約1900点、新町家が約1050点、室町家が約700点の寄贈品などから構成されており、国宝6点、重要文化財75点、重要美術品4点が含まれています。その中核は茶道具類で、国宝「志野茶碗 銘卯花墻」、重要文化財「黒楽茶碗 銘俊寛」、重要文化財「唐物肩衝茶入(北野肩衝)」など名品優品が含まれています。

国宝「志野茶碗 銘卯花墻」

重要文化財「黒楽茶碗 銘俊寛」

重要文化財「唐物肩衝茶入(北野肩衝)」

絵画は、円山応挙の代表作 国宝「雪松図屏風」など円山派の作品が多く、三井家が積極的に応挙を庇護していた関係も興味深いところです。 拓本では、中国古拓本の聴氷閣コレクション、書跡は藤原定家筆国宝「熊野御幸記」など、能面は重文「孫次郎」に代表される金剛流伝来の50数面があります。 また、国宝2点・重文7点を含む刀剣類、国宝の日本最古の墓誌など質が高いものとなっています。世界的な切手コレクション約13万点も所蔵しています。

<円山応挙「雪松図屏風」※国宝>
<藤原定家筆国宝「熊野御幸記」※国宝>

<「孫次郎(オモカゲ)」※重要文化財>

→能面のコレクションってそういえばここが初めてかもしれません。

円山応挙とは

・三井記念美術館が所有する人気コレクション「雪松図屏風」…この作者である円山応挙について振り返っておきたいと思います。
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(円山応挙とは)※日本大百科全書(ニッポニカ) より
・江戸中期の画家。丹波国桑田郡穴太村(現:京都府亀岡市)の農家に、円山藤左衛門の次男として生まれる。
 1766年(明和3)34歳のとき、諱(いみな)を応挙、字を仲選、号を遷斎と改め、以後一貫して応挙の諱を用いた。

 幼いころより絵を好み、早くから京都に出て狩野探幽の流れをくむ鶴沢派の画家:石田幽汀(いしだゆうてい)(1721―1786)に入門し、本格的に絵を学んだ。幽汀は狩野派に土佐派を折衷した装飾的な画風をみせ、禁裏絵師となって法眼(ほうげん)に叙せられている。

 しかし応挙はその保守的な性格に飽き足らず、しだいに写生を基本とした写実的な画風に傾いていった。生活のための「眼鏡絵」の制作で知った西洋画との出合いが、応挙の転換を促したと考えられる。眼鏡絵とは、当時舶載されていた覗機械(のぞきからくり)に使用される絵のことで、反射鏡に凸レンズを組み合わせた装置にセットして覗かれる。

 その画法は、18世紀オランダ銅版画の画法に基づき、科学的な透視遠近法と写実的な陰影法を用いたものであったため、従来の画法を学んできた応挙には、ひときわ強烈な刺激であった。さらに、中国の宋元院体画の精緻な描写や、清朝画家:沈南蘋の最新の写生画法にも多くの影響を受けたが、西洋画の徹底した写実技法や南蘋様式の濃密な彩色法をそのまま日本画の画面に転用せず、それぞれの絵画のもつ現実的な空間表現への関心や、モチーフの細密画法を自らの写生の重要な基本としながらも、より平明で穏やかな感覚の画面を追求した結果、独自の「付立て」筆法を完成させた。

 こうした彼の画風は、大津の円満院門主祐常の支持を受けるところとなり、30歳代には多くの作品の注文を受け、その庇護のもとに画家として大きな成長を遂げることができた。祐常は1773年(安永2)に没したが、応挙は40歳代に入った安永年間(1772~1781)にもっとも充実した時代を迎え、以降独自の様式による作品を数多く制作している。

 代表作には『雨竹風竹図屏風』(京都・円光寺・重文)、『藤花図屏風』(東京・根津美術館・重文)、『雪松図』(国宝)、『四季草花図』(袋中庵)などがあり、これらの作品を通しても、個々のモチーフの写生的表現と、それらを包み込む背後の空間との知的な均衡関係を、応挙が長年にわたって研究し、築き上げてきたことが理解される。

 応挙のもとにはすでに息子の応瑞(1766―1829)や長沢蘆雪(ながさわろせつ)、松村月渓(げっけい)(呉春(ごしゅん))、吉村孝敬(こうけい)(1769―1836)、駒井源琦(こまいげんき)(1747―1797)、山口素絢(そけん)(1759―1818)らの弟子が集まり一派を形成していたが、師のこうした緊密な画面はかならずしも十分な形では継承されなかった。だがその画派は円山派として、明治までの長い間、美術史上の重要な存在としてその地位を保ち、近代日本画の展開の基盤となった点で大いに注目評価されている。

「造形の美」と「用の美」

・洋風建築の空間に、日本および東洋の美術品を展示し、観覧者が伝統的な「造形の美」を鑑賞できるような工夫がなされています。(「造形の美」とは、形、色彩、構図といったそれぞれの作品がもつ固有の美しさ)

 また、茶室「如庵」を再現した展示ケースでは、茶道具の取り合わせによる「用の美」を観覧可能です。(「用の美」とは、用いる美しさのことで、普段から使われた茶道具は、その取り合わせて使われるなかで引き出される美しさ)

※如庵とは…織田有楽斎(織田信長の実弟、1547~1621)が京都・建仁寺境内に1618年頃に建てた茶室。 「如庵」は、明治41年(1908)に三井家の所有となり東京・麻布今井町の三井邸内に移築、昭和3年、北家十代の三井高棟が如庵披きの茶会を行いました。昭和11年には旧国宝に指定され、昭和12年(1937)から5年の歳月をかけ大磯の三井家別荘に移築され、昭和26年(1951)に国宝に再指定。その後、昭和40年代に名古屋鉄道に売却され、現在は、愛知県犬山市に移築されています。三井記念美術館では、京都造形芸術大学教授中村利則氏の監修のもと、可能な限り忠実に再現した「如庵」の内部が観覧可能です。「如庵」では、季節や展示に合わせて茶道具を取り合わせ、茶道具の本来あるべき空間での美しさを体験できる催しを開催中です。 <現在の如庵>

重要文化財の洋風建築 三井本館

・美術館が入っている三井本館は、アメリカのトローブリッジ・アンド・リヴィングストン社が設計、1929年に竣工されたアメリカン・ボザール・スタイル新古典主義の昭和初期の日本を代表する重厚な洋風建築として、1998年に国の重要文化財に指定されました。重要文化財の中に美術館をつくるという新たな取組みで、日本橋地区の「歴史的建築物の保存と周辺と調和した開発の両立」に取り組んできた三井グループならではの建物です。

…いかがだったでしょうか。他にも美術館HPには「銅製船氏王後墓誌」と呼ばれるわが国現存最古の墓誌であったり、石田三成や秀吉ゆかりの刀など幅広いコレクションを形成している様子を知ることができました。

銅製船氏王後墓誌

短刀 無銘正宗 名物日向正宗

短刀 無銘貞宗 名物徳善院貞宗

…それにしても以前から刀剣乱舞が流行っていますよね。美術館に行くと刀剣の展示ケースに人だかりができていることもちらほら見かけます。ゲームなどメディアの力はあらためてすごいんだなって感じます。(余談ですが)

それでは最後に、こんな名品ぞろいのコレクションを収集した三井財閥、それがどれほどの規模だったのか一目でわかるものがWEB上に掲載されていましたのでこちらをご紹介終わりたいと思います。

…いかがでしょう。皆さんも聞いたことがある会社名ばかりではないでしょうか。財閥の力ってすごかったんだなとあらためて感じさせられます。しかも元は1人(三井財閥の先祖は伊勢商人で慶長年間、武士を廃業した三井高俊が伊勢松阪に質屋兼酒屋を開いたのが起源といわれています)が立ち上げたわけですからね。

というところで今日はここまで。
次回以降もどんどん東京の美術館をご紹介していきます。引き続き本ブログ「絵本と、アートと。」をよろしくお願いします。

※三井家の家紋です。真ん中に「三」の文字が。

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